幼き頃は、名前と本当に仲がよかった。小学校の登下校は毎日ふたりいっしょであったし、親同士も付き合いが深く、それこそ、なにかあれば寝食を共にすることもあった。
 それが、中学へ上がったあたりから、お互い部活や委員会で忙しくなり、友人関係も大きく変わったのだ。
 無論、それだけならどうということはなかったが、同じ時期から俺は、俺のなかにある彼女への特別な感情を意識し始めざるを得なくなった。
 それはまるで初めての感覚だった。戸惑うばかりの俺を置いて、気持ちは日に日に強くなる。そうして限界が来たとき、幼馴染みとして仲良くしてくれている彼女の傍に居ることに、俺自身が耐えられなくなってしまったのだった。
 そんなこともあり、高校生になる頃には以前の親しさが嘘のように、ほとんど関わりを持たなくなった。
 唯一の救いは、高校も同じところに通うことができた、ということだろう。
 これは名前にはとても云えぬが、彼女が受験する高校を佐助に調べさせて、俺もそこを受けたのだった。そうなのだ。そんなことも直接訊けぬくらいには、彼女との仲は希薄になっていて、なにか、一種の気まずさのようなものを湛えていたのだ。

 一方的な感情は、未だに消えることがない。
 いまも、廊下でクラスメイトの男子と楽しげに話している名前から、目が離せないでいる。彼女は笑顔で、その目にはたしかな親しみがこめられていた。男子のほうは、俺も知った仲である長曾我部殿であるが、そんなことはなんの足しにもならなかった。
 その眼差しは、笑顔は、以前なら俺に向けられるものであったのに。
 そんなふうに、明るい過去の記憶にすがっては、現在との紛れもない差違にうちのめされるのだ。なぜ、あの手を振りほどいてしまったのだろう、などと、後悔したところで時間は戻らない。
 ふと、目が合った。
 その一瞬、名前から笑みが失われた。視線はすぐに長曾我部殿へと戻される。遅れて、かっと耳が熱くなるのがわかった。俺は、いったいどんな顔をしていただろうか。どんなふうに、彼女の瞳に映ったのだろうか。
「旦那、なあ、真田の旦那ってば」
「……佐助か、どうした」
「いや、つぎの授業、移動だけど」
「おお、そうだったな」
 時計に目をやると、そろそろ休み時間が終わろうとしているところだった。
「だいじょうぶ? ぼうっとしちゃって」
「うむ、問題ない」
 必要な教科書とノートと筆箱を急いで準備して立ち上がる。つぎの授業は英語だ。
「そんなに気になるなら、話しかければいいのに」
 呆れと哀れみの入り交じった声が隣から洩らされる。俺はことばを返さなかった。そうしたいといままでに何度も思って、しかし、結局できなかったのだ。
 教室から出て、名前の傍を通る。長曾我部殿が俺に気づき、軽く手を上げた。
「よう、真田。つぎの授業、なんだ?」
「英語にござる」
「だからそんなしかめ面してんのか」
 かかか、と長曾我部殿が歯を見せて笑う。名前とはもう、目は合わなかった。

 事態が転がったのは、その英語の教室から自分の教室へと戻ってくる途中だった。正確に云えば、転がったのはシャープペンシルであった。
 俺は歩きながら隣に並ぶ佐助の指示を仰ぎ、教科書を下敷きに課題であるプリントの直しを行っていたのだが、そこへ、なにやらふざけ合っていたらしい政宗殿と長曾我部殿とぶつかってしまい、手に持っていたシャープペンシルを取り落としてしまったのだ。
 しかし、そのたかが一本のシャープペンシルが、俺にとっての運命そのものと云っても過言ではなかった。
 長曾我部殿たちと共に居たらしい名前の手が、そのペンを拾い上げたのだった。
「これ……」
 名前が、手に持ったものをまじまじと見ながら、小さくこぼす。
「す、すまぬ、それは、俺のだ」
「知ってる。私があげたものだもの」
「そう、だったか、」
 忘れてなどいないくせに、要らぬ嘘をつく。まっ赤なシャープペンシルは、中学一年生の誕生日に彼女がくれたものだった。ボールペンとノートもいっしょに。
「そうだよ」
 名前はすこし寂しそうに笑って、俺の手のひらにその赤を置いた。そのまま踵を返すのを、黙って見送ろうかというとき、佐助のものか、あるいは長曾我部殿か政宗殿か、誰かの手が俺の背中を強く押した。
 不意なことによろめき、つたない一歩を踏み出す。
「……名前っ」
 上擦った声が出た。彼女の名を呼ぶのは随分と久しぶりだった。
 驚いたように振り返った名前の手をとって、目的もわからぬまま、とりあえず、ひとの居らぬ場所を探して走り出す。名前の戸惑った声が後ろから聞こえるが、気にしていられなかった。

 ひとの気配のない、閉ざされた屋上の扉の前で息をつく。名前のほうは俺以上に息が上がっていて、ひどく無茶をさせてしまったようだった。
 落ち着いてくると、途端に居たたまれなさに襲われる。その、だとか、あの、だとか、意味をもたないことばを繰り返すばかりで、肝心なものが喉の奥で絡まったまま出てこない。
「ゆ、ゆきむら」
 そんな俺を見かねてか、名前がか細く俺の名を呼んだ。名を呼ばれるのも、やはり久しぶりだった。
「……すまぬ、」
「ううん」
 なにに対して謝ったのかもわからぬ謝罪に、名前は首を横に振った。その目はどこか不安そうに、けれども真っすぐに俺に向けられていて、それが例えようもなく苦しく、同時にうれしかった。
「その……だな、名前」
「うん」
「すまぬ、」
「それはもう、いま聞いた」
「これは、またべつのことなのだ」
「そうなの」
「……うむ」
 謝りたいことや伝えたいことがたくさんあった。なにも話せぬと思っていたのに、いざ、こうして向き合ってみると、ことばは俺自身の内側に留めどなく流れつづけていたのだと知った。
 いきなり引っ張って来てしまってすまぬ。理由も告げずに避けていてすまぬ。それでいて、近くには居たいなどと身勝手な想いを抱えていてすまぬ。
 それから。
「やはり、俺は、名前が好きだ」
 彼女の瞳が丸くなる。心底驚いた、といった表情だった。その態度に俺も少なからず驚いた。もはや名前は俺の気持ちを察しているのではないかと、そう思っていたからだ。
 しかし、その考えはどうやら正反対らしかった。
「私、嫌われちゃったんだと、思ってた……」
 名前の顔が泣きそうに歪む。それは、笑顔をつくろうとして失敗しているようにも見えた。
「まさか、そのようなこと、あるはずがないではないか」
「でも、急に、ほんとうに急に、話しかけてくれなくなったから。私から話しかけたって、そっけなくて、だから、なにか幸村の気に障るようなことをしたんだって、そう思って……」
 大きな誤解だった。
 名前と話せば、俺は声にも顔にもこの感情をきっと滲ませてしまう。そうすれば、必ず彼女を困らせてしまう。そう考えて、話す必要のあるときは極力、なにもかもを表に出さないように尽力したのだ。
 それが、名前をこんなにも悲しませるとは知らずに。
「すまぬ。俺は、臆病だったのだ。名前を好いて、しかし、それに気づかれないよう繕うので、精一杯であった」
 なんと情けないことか。俺は己のことばかりで、一等大事なはずの名前の気持ちをずっと蔑ろにしてきたのだ。
 幸村、と小さな声で呼ばれて、自分が俯いていたことに気づく。目が合うと、名前は遠慮がちにはにかんで見せた。
「私も、幸村が好きだよ。そういう、不器用なところも好き。だけど、だからこそ、つらかったよ」
 ずっと好きだったよ。
 そう繰り返され、胸の奥のほうから熱いものが全身に廻るのを感じた。名前の頬も仄かに赤く、それが、そのことばが偽りではないのだと裏づけているようで、云いようのないうれしさに溺れる。
「また、前のように、俺とともに居てくれるか」
「うん、幸村の傍に居させて」
「その……長曾我部殿や、政宗殿は、」
「元親たちとはね、幸村が仲良いから、私も仲良くなったら、すこしでもまた、幸村に近づけるといいなと思って」
「そ、そうだったのか」
「ふたりは、私の気持ちを知っていて、幸村とのことを応援してくれてたんだよ」
 最後に残っていた微かなわだかまりも、すべてきれいに払拭されてしまった。もう、なにも躊躇うことはないのだ。身体もこころも、雲のように穏やかに軽い。
 過ぎた時間はもう戻らぬが、これからの日々をまた、彼女とともに過ごせるのだ。それも、今度はお互いの気持ちを知った上で。
「戻るか」
 名前の手をとる。もう、離すことはないその手を引いて、歩き出す。
 あの、背中を押してくれた手はいったい誰であったのか。わからないままだが、訊ねるのも野暮に思い、胸のなかで礼を云うだけに留めておいた。
 あるいは、この繋がれた手を見てくれたなら、それで許してくれるに違いないと、そうほとんど確信できるのだ。




恋に繋ぎ手
御題:蒼月涙さま
初恋、幼馴染み、すれ違い

2014.04.15
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テーマ「人外ファンタジー」
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