『幸せ』とは何か。名前は近頃、そればかりを考えている。『幸せ』とは何か。その逆『不幸せ』とは、いったい何物なのか。

「吉継さま、お菓子を頂いて参りました。お茶をお入れしましょうか」
 自室で書物を読んでいた夫に声をかける。彼は目線を上げると、名前の持つ盆を見留めた。
「そうよな。八ツ時ゆえ、一息入れるのもよかろ」
 包帯に覆われた手が書物を閉じる。名前はその傍らで茶の準備を始めた。湯呑みは対になったものがふたつ。
「戦の準備は、上々のようで」
「ぬかりない。毛利ともすでに話が進んでおる」
「本当に、三成さまにお隠ししていて、よろしいの」
「知ったところで、三成は小蛇の尾ほども興味を持たなかろ。それでは戦にならぬゆえ、こうして我が代わりに政を担っておるのよ」
 至極残念そうな口調を繕って、淹れたばかりの茶を啜る。どうやらそれなりに愉しんでおいでらしい。
「このお菓子も、三成さまから頂いたものなんですよ。要らないので刑部にでも呉れてやる、とのことのみたいです」
「左様か。ま、菓子も喜んで食べられた方が報われような。ぬしも食べやれ」
「はい、いただきます」
 大福をほおばる。もちもちとした食感と、餡の甘さが絶妙だ。
 たとえば、こういうものを美味しいと、そう感じながら食べられるようになるといい。そう思う。
 いまの世に、凶王のお眼鏡に叶うものなど滅多にない。先のことばを借りるなら、小蛇の尾ほども興味を持たれないもののほうが、圧倒的に多かった。
「目的が果たされたなら、三成さまももっといろいろなものに興味をもつようになれるのかしら」
「名前」
「はい」
「ぬしはわざわざ茶まで淹れて、我と三成の話をしにきたのか」
 平淡な声音は質問の意図を読み取らせてはくれない。名前はいいえ、とかぶりを振って、茶で喉を潤した。
「けれど、吉継さまの興味を惹くものもまた、私はあまり知らないものですから」
 名前の知っている大谷吉継は、幸福を憎み、不幸を望み、ことば巧みに嘘を操る、偽りだらけの掴めないひとだ。そして『義のため』に石田三成に尽くす、自分の夫なのだ。
「我の興味を惹くもの、か。それはたしかに、難題よ」
「ええ、私には解けませぬゆえ、どうか教えてくださいな」
「そうよなァ、我なんぞに嫁ぎ来たりたモノズキには、いささかながら興味も出ようか」
 包帯の透き間から覗く目が、三日月のように弧を描く。
「それも、我の興味を持つモノなどを、知りたいときた」
 益々もって物好きよ、モノズキ。愉快そうに口ずさむ。からかわれるだけでは悔しいので、名前も負けじとことばを探す。
「なれば、私たち、互いが互いに興味をもっているのですね」
「そうなるなァ」
「まあ、なんて理想的な夫婦かしら」
「加賀に巣食う鴛鴦の番いにも負けなかろ」
 ヒヒッ、と喉を詰まらせてしまいそうな笑い声がこぼされる。名前は食べかけだった大福を口におさめると、慎重に咀嚼し呑み込んだ。
「その鴛鴦も、もうすぐ幸せを失うのですね」
「ぬしが案ずることでもなかろ。アレが降るにはまだちと足りぬが」
「その時を、私も楽しみにしていていいのかしら」
「楽しむ余裕があればよいが、な」
 その手の湯呑みがいつの間にか空っぽになっていた。急須を傾けて新たにそのなかを満たしていく。
「楽しめましょう。私は、あなたさまの妻だもの」
 すべてを陥れることで、彼が救われるならばそれでいい。日ノ本の不幸が、たったひとりの幸福になるのだ。なんて理不尽で、夢のある話だろう。
「ぬしも堕ちるところまで堕ちたものよ。かの国の姫が、気の毒よなァ」
「吉継さまが不幸だと仰るのなら、私はそれに甘んじましょう」
 こんな、なんの面白味もない妻を娶ってしまった彼のほうがよほど気の毒だと思ったが、肯定されたらそれはそれで悲しいので黙っておく。
「ぬしの健気さには頭が下がる。ほれ、これをやろ」
 ぽん、と手のひらになにかが落とされる。
「……これは、三成さまに頂いた大福ではないですか」
「違うなァ。三成が我に寄越した、我の大福よ」
 暗く底知れない、沼のような目が微かに細められた。笑っておられるのだと解釈する。
「では、美味しく頂きましょう」
 他人の不幸は蜜の味。それでほんのすこしでも喜ぶお方が居るのなら、おかしな話ではあれど、名前は隣に坐る傷だらけの男に『不幸』と評されることもうれしかった。
 口に放り込んだ大福が、不思議なことに、ひとつめよりも甘く感じる。幸せとはこういうことを云うのだろうな、と名前はこころなしかわかったような気がした。




不幸せの定義
御題:緋緒殿
夫婦、ほんわか、昼下がり

2013.07.14
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