もののふを捨て駒などと云う方とは口も利きたくない。政を安泰に行うためにここへ嫁がされたと思っている名前は、初対面からそう云い放った。
「どうせ私のこともそう思っておいでなのでしょう?」
「そう思うのなら思うておれば良い」
「やっぱり!」
「喧しい。此処を開けぬか」
「嫌です。もう帰って下さい」
ぴしゃりと閉じられたままの襖はそれきり黙り込んでしまった。無理やり開けようにもつっかえ棒でも立ててあるのか、がこんと耳障りな音をもどかしく残すだけである。
何故、我がこんなにも必死にならぬといけぬのか。この女は本当に何一つと理解していないらしかった。
襖の奥から微かに漏れるか細い嗚咽がこの胸を締め付けていることも知らないのだ。
しかし、このような状況においてどう気の利いた声をかけようかなど思い付きもしないのだから、我ながら呆れる他ない。
待ってみるもののとうとう部屋から出て来る様子はない。途方に暮れ、朝の近付く深い空を仰げば細い月輪が冴え冴えと冷たく浮かんでいた。
彼女は知らぬ間に城を抜け出した。
もう帰ってくれと吐き捨てたくせ、自らが出ていったのだ。兵に調査をさせるもさすがに国に帰ったわけではないらしく、その足取りは未だ掴めていない。
行く宛もなくただただ我から遠く離れようと歩き続けているのかと思うと気が気ではない。
あのような酷い別れ方をしたからか、明け方の月輪を見る度に時間はその時に巻き戻る。もう少しことばを選んで接してやれたなら何かが変わっていたのだろうかと。まったく、自分らしくもない。
早く日輪が昇り空が明るくならないかと薄暗い時間に気持ちは急ぐばかりだ。
名前が此処を去ってから七回目の日輪が昇ったその日の夜更け、もう皆寝静まっている頃だというのに足音を大袈裟なくらいに立てて兵が廊下を走っている。
何をそのように急いでいるのかと思えば、我の部屋の前で気配がぴたりと止まった。
「毛利様!」
焦った大声に自然と眉間には皺が寄る。
「何事ぞ」
「お、お方様が戻られました!」
その報告に弾かれるように、頭が理解するよりも先に身体が勝手に部屋を飛び出していた。
城の門前で踏み入ることを躊躇している彼女を視界に捉えた。腕を掴み引き寄せ、華奢な身体をもう二度と我から離すまいと強く抱く。
「もと、なりさま」
「……貴様、今まで何処へ行っていた」
「城下の、宿……に。でも、お金が底を、尽きてしまっ、て」
「我がどれほど心配したと思っておる」
今度こそ慎重にことばを選ぶ。
「貴様は勘違いをしているのではないか」
「何の、ことです」
「我程の者なれば政略のために婚姻を結ぶなどせずとも安芸は治められる」
「……え」
「我が望んで貴様を迎え入れたと申しておるのだ」
瞠目したまま彼女は、まるで石のように動かない。
「貴様を、名前を捨て駒だなどと思うたことは一度たりとて無い」
身を離し、黒く丸い双眸を見遣る。それを縁取る睫毛がふるりと揺れた。
「我が日輪の申し子ならば、貴様は月輪の娘よ」
「は……月輪?」
「こちらの話だ」
ふん、と背を向け城へと戻る。後ろから微かな足音が付いてくるのが聴こえ、内心ひどく安堵した。
「それより、元就様」
「なんだ」
「わ、私は貴方様を許した覚えはありませぬ」
「好きに致せ」
まこと、つれぬ女だ。しかしどうしてかこころは軽やかだ。相変わらず夜明けの月は冷たいままではあるが。
有り明けの
つれなく見えし
別れより
暁ばかり
浮きものはなし
(壬生忠岑 古今・恋三)
20100723 五万打感謝