デパートの屋上には誰もいなかった。夕暮れのなか、子ども向けの遊具だけが寂しそうに佇んでいて、それが一層、風景を寒々しくさせる。マフラーを口もとまで引き上げ、それだけでは足りずに両手をコートのポケットに突っ込んだ。
「名前もなにか飲むか」
 自動販売機に向かっていった幸村が振り返りざま私に訊ねた。近くまで寄って、ラインナップを確認する。
「ホットココアにしようかな」
 財布を出そうとポケットから手を出すと、その手を幸村に握られた。彼は黙ったまま空いているほうの手でホットココアのボタンを押す。
「あ、ありがとう」
「うむ」
 それから、幸村もすこし迷ったすえに同じものをもうひとつ買ったのだった。

 フェンスに寄りかかりながらココアを啜る。繋がれていた手はそのままだとプルタブが開けられなかったので、やむなく離してしまった。
「寒いね」
 変わりに並べた肩をぴたりと寄せる。
「そうだな」
 背中で針金の軋む音。幸村の吐いた息が冷たい空気に白く溶けていく。それを目で追っていたら、不思議なものを見つけてしまった。知らず知らず、あ、と声が漏れる。
「どうした?」
「ちょうちょが飛んでる」
「まさか」
 真冬だぞ、と訝しげな幸村に、指を差して示す。
「ほんとだよ、ほら、あそこ」
 ひらひらといまにも息絶えそうな蝶々は、すこし先のフェンスに着陸した。背景には凍てついた雲。異質なそれが幸村の目にも留まったのか、おお、と小さな感想が上がった。
「冬を越すつもりなのだろうか」
 静かな口調はやさしげで、それがなぜだか切なかった。あの蝶が春を迎えることなどきっとないことを、知っているからかもしれない。
「越せるといいね」
 せめてそう願い、ことばにする。幸村も隣で小さくうなずく。
 俄かに微かな風が吹いて、蝶の飛び立ちを促した。それに乗って、蝶はフェンスの向こう側へ、花びらのように舞い降りていく。建ち並ぶビルや看板を縫いながら。
「二羽だったらよかったのにね」
 ついそんなことを云ってしまう。幸村が首をかしげた。その手のなかではココアの缶を持て余しているようだった。
「一羽だと、冬を越すには心細いでしょう」
「そうか」
「うん」
「なれば、俺には名前が居てよかった」
 空になった缶をゴミ箱へ投げ入れて、幸村が仄かに笑う。カラカラン、と無機質なのにどこか楽しげな音が響いた。
「よかった? 私が居て」
「名前は違うのか」
「ううん。私にも幸村が居てよかった」
 云いながら、うれしくなって頬が緩む。よかった。幸村が居てよかった。隣に居るのが、幸村でよかった。
「帰るか、そろそろ」
 そうすることがごく自然なことであるかのように、幸村は私の手をとって云った。ふたたび感じたぬくもりに私はとてつもなく安心する。
 すこしだけ温くなってしまったココアを飲み干して、ゴミ箱の傍を通る際、幸村がそうしたのと同じように空っぽの缶をそこへ落とした。カラカラン。
「しかし、名前」
 半歩ほど前を行く幸村が肩越しに零す。
「どうしたの?」
「蝶は、飛ぶものだ」
「うん?」
「これから、番いの片割れに逢いにゆくのやもしれぬ」
 ああ、と納得して、つい笑ってしまう。ことばにした本人も、自分でらしくないことを云ったと思ったのか、気恥ずかしげに顔を逸らした。そんな幸村が私は心底好きだと感じる。
「逢えるといいね」
 それが、きっとあの蝶にとっての春になる。
「俺は飛んで行けぬゆえ、名前は離れるでないぞ」
「ええっ」
「なんだ」
「飛んできてくれないの」
「無理だ、飛べぬ。走りはするが」
 正直すぎる答えが、いとも幸村らしい。それで充分だった。
「云われなくても、離れないけどね」
「そうしてくれ」
 きゅ、と握る手に力がこめられる。同じ力になるように、私もきゅ、と握り返した。
「そういえば、なにも買わなかったが、よかったのか」
「うん、見てるだけで楽しかった」
 もうすぐ日が沈む。辺りが暗くなる。蝶々のように綺麗な羽根はついていないけれど、それでも見失うことのないこの背中があれば、ほかに必要なものなんてなにもなかった。




蛹が蝶になる理由
御題:道子さま
凍て蝶、夕暮れ、フェンス

2013.06.21
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