穏やかな風がさわさわと吹いている。そこに刺すような冷たさはかけらも残っていなくて、草花のあたたかい息吹と春のにおいが感じられた。
 そんな日和、とある甘味屋の娘であるわたしは、使いとして上田城へ上がっていた。背負う荷物は多いけれど、足取りは軽い。
「甘味処『苗字屋』です」
「ああ、いつもご苦労様です。どうぞ」
「ありがとうございます」
 門番さんに自分が使いの者であるという証書を見せて、城内へと入れてもらう。最初の頃はこれだけで緊張したものだけれど、何度も通えば、いまではもう慣れたものだ。

 本丸までの道を歩いていく。堀に沿って立ち並んだ桜の木は、見事に淡く咲き誇っている。わたしはこの上田城の桜がとても好きだ。
「どう、見蕩れた?」
 思わず立ち止まって眺めていると、ふいにどこからともなく声が降ってきた。辺りを見回してみても声のぬしは見つからない。
「どなたですか?」
「そうだなあ、桜の精、ってことで、どう?」
「桜の精?」
「なーんてな」
 がさり、と頭上で音がする。
「こっちだよ、お嬢さん」
 見上げると、桜の木の上。そこには真田様お抱えの忍がひとり、こちらを楽しげに見下ろしていた。その、よく見知った顔にほっとする。
「佐助さんでしたか」
「あったりー」
 びっくりした? なんて陽気に笑う彼に、わたしは、ええ、とうなずく。あんまり驚かせないでほしい。
「でも、どうしてそんなところに?」
「もうすぐ名前ちゃんが来る頃だと思ってさ」
「わざわざ待っていてくださったんですか」
「そりゃあね。その大荷物、ひとりじゃ大変だろ」
 わたしの背負う荷物に目を落として、佐助さんは苦笑する。この大きなつづらのなかはすべて真田様へ献上する菓子たちだ。
「たしかに、此度のご注文はいつもより多いですよね」
「花見用なんだ、悪いね」
「そんな、いつもご贔屓にしてくださって光栄です」
「それを云うならこちらこそ、いつも美味しい甘味、ありがとね」
 そのうえ大量に注文受けてくれるし早いし、助かるよ、なんて礼を云われては、少々くすぐったくなる。甘味屋選びも大変なのだろうことがうかがえるが、それにすこしでも手を貸すことができているのならうれしかった。
「それに、その……こうして上田城にお届けに上がらせて頂くのも、実は楽しみなんですよ」
 浮かれついでに、つい本音を零す。
「へえ、そうなんだ?」
 すこしばかり不思議そうに首をかしげると、桜の木から佐助さんが身軽に飛び降りる。そのままわたしの背後に回って、つづらをひょいと奪っていってしまった。
「あ、ありがとうございます」
「いーえ」
 隣に並び、歩き出す佐助さんの柿色の髪が揺れる。薄づきの桜を背景にして、それはとても鮮やかに映えた。思わず、わたしは目を細める。
「あ、その顔」
 そんなわたしを見下ろして、佐助さんが呟く。
「さっきといっしょ」
「さっき、ですか?」
「うん、桜を見ていたとき」
「桜を……あっ、」
 どう、見蕩れた? と彼が尋ねてきたあのときだと気づいて、わたしはすこし恥ずかしくなる。綺麗だと、好きだと、そう思っていたことを悟られてしまったのだ。
「名前ちゃん?」
「あ、いえ、す、すみません……」
「いや、いいんだけど、さ」
 佐助さんは一瞬だけ躊躇うように視線を彷徨わせたあと、はにかむように小さく笑った。
「そんな表情で見上げられたら、さすがの俺様もどきっとしちゃうって」
 彼らしからぬ、微かに照れを滲ませた科白に、わたしのほうこそ心臓が落ち着かなくなってしまう。佐助さんは、そんなふうにも笑うのか。
「ところで、さっきの話だけど」
「さ、さっき、」
「今度は、名前ちゃんがここへ来るのが楽しみだって話」
 どうして? なんて、じっと見つめてくる灰茶色の瞳に頬が熱くなるのがわかる。理由なんて、おそらくたったのひとつしかない。
「……きっと、こうして佐助さんとお話しするのが、楽しいんだと思います」
 耐えきれず目を逸らす。すると、にわかに影が差して、こつん、と額に佐助さんの額があてられた。急なことにわたしはぴくりとも動くことができない。
「さ、佐助さん、なにを、」
「うん、ほんとは頭撫でたいなあ、なんて思ったんだけど、両手塞がっちゃってるからさ」
 わたしが訊きたかったのはそういうことではなかったけれど、へへ、と笑う佐助さんが心なしかうれしそうだから黙っておくことにした。きょうはいつになく多彩な表情の彼が見られる。
「お花見、していったら? 名前ちゃんも」
「い、いいんですか」
「そりゃもう、大歓迎だよ」
 額が離れていく。明るくなった視界が眩しくて、わたしはまた目を細めた。辺りの景色のなにもかもが、春の陽気に包まれている。




甘い春をお届けに
御題:美愛さま
春、見上げる、はにかむ

2013.05.05
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