まったくと云って良いほど、講義に集中出来なかった。講師の話は左耳から右耳へとすり抜け、頭に浮かぶのは家に置いてきてしまった幽霊のことばかり。何か仕出かしてはいないか、勝手なことはしていないかと気が気ではない。

昼を少し過ぎた頃、今日受ける分の授業を終えて足早に家へと向う。たとえどんなに粗末なものであったとしても自分の城に人をひとり残して出掛けるべきではなかった。いや、人ではなく幽霊なのだけれど。



鍵を開け玄関のドアを開けば、いつもどおり人ひとり感じさせない静けさが出迎えてくれる。当然だ。「人」はひとりも居ないのだから。

「ただいま」

リビングを覗いて、私はことばを失った。同時に、大きな罪悪感と頭から足の先まで冷えていくような感覚。

幸村は私が行ってきますと残した時からおそらく一歩も動かず、静かにそこに佇んでいた。

ただ一点、虚を見つめて。私が帰ってきたことにさえ気付いていないその様子に胸が痛む。私はどうして、彼自身のことを考えてあげられなかったのか。

重い足取りで近づけば、緩慢な動作でその頭が上がる。目線が合ってようやく、私を認識したらしかった。疲れたような笑みが彼の表情に浮かぶ。

「おかえりなさいませ、名前殿」

力の抜けた手から鞄が滑り落ちた。驚いた幸村が、如何したのだと慌てて私の元へ寄って声を掛ける。

「ご、めん」
「は……何がで御座ろう」
「ごめんね、ひとりにして」

幸村は、孤独な幽霊だ。膨大な時の中でたったひとり、自分自身を救う術を探してきたのだ。そんな彼を置いてどうして離れてしまったのか。本当に私は自分のことしか見えていない。

「こころ細かったでしょう」
「名前殿?」
「淋しかったでしょう」
「な、何を、云っておるのだ」

困惑する瞳は、必死に感情を隠そうとするようなものではない。自分で気付いていないのか、一体きみがどんな顔をしていたのか。

「私が帰ってくるまでの間、何を考えてた?」
「う、うむ……。特にこれといったことは」
「そう」
「強いて云うならば、生きていた頃のことを」

生きていた頃。それは幸村に肉体があった、息絶える前の時間のことだ。彼がどんな風に生きてきたのかなんて私には判りもしないが、無に近いあの表情の裏で一体なにを思っていたのだろうか。幸村は幽霊である前に「人」だったということを、私は忘れていたのだ。

「幸村、出掛けよう」

脈絡のない提案に幸村はわけが判らないといった目を向ける。私はその無言の問いかけを無視して、フローリングに横たわる鞄から参考書の類を抜き取り肩にかけた。

「散歩は嫌いかな」
「い、いやっ」
「じゃあ、ふたりで少し歩きませんか」

こうして、最初から彼を外へ連れ出してあげるべきだったのだ。

「是非、お供させて下され」

降ってきた嬉しそうな声と笑顔に私は安堵の溜め息をこころの内で零した。力になると云った以上、私に出来ることならこの健気な幽霊に何でもしてあげたい。僅かなものでも、きっかけになるなら与えたい。出逢って間もないにも関わらず、心底そう思った。



本当にふらりふらりと何処へ向かうでもなくただ歩く。途切れ途切れの会話は、しかし居心地の悪いものではなかった。

「先程、名前殿はこころ細かっただろうと、淋しかっただろうと某に云いましたな」

思い出したように幸村が沈黙を破った。私はそれに肯定の相槌を打つ。

「まったくの逆なのだ、名前殿」
「……え?」
「こんなにもこころ強く感じたのは、この身を失う前のことで御座る」

私は何か返すことばも見つけられずにただ視線を落とした。緩やかな風が不規則に髪をさらう。

「名前殿はとても、とても確かな存在だ」
「ゆき、」
「この現世でただひとり、某を認めて下さる」
「でも、今日、私は」

この先が予想出来たのか、幸村はいえ、と小さくそれを否定した。私は仕方なく口をつぐむ。

「離れていても構わぬのだ。某は名前殿にもはや『憑依』しているも同然。遠くにいても見えぬ楔で繋がっているのだ」
「きみと、私が……」
「如何にも。だから名前殿は、何の心配もせずにそなたの日々を過ごして下されば良い」

見えない楔、か。何の気なしに自分の手を見遣った。幸村が云えば、そんなものが本当に在るように思えて、無意識に頬が緩んでいく。

「運命の赤い糸、みたいだね」
「赤い糸?」

復唱する幸村に、そう、と小指をかざして見せた。

「結ばれる運命の男女は小指が見えない『赤い糸』で繋がっているんだって」
「む、結ばれる……?」
「恋仲になる、ってことかな」
「こ、恋など、破廉恥極まりないっ」

顔を赤くして慌てる幸村に思わず噴出す。恋が破廉恥だなんて、本当に初心な人だ。握手も破廉恥、恋も破廉恥で。彼にとって何処までなら「破廉恥」じゃないのだろう。

「何を笑っておられるのだ……」
「いや、可愛いなあと思って」
「か、かわっ!?」

幸村の声が裏返る。そういうところが可愛いんだって、という台詞は喉の奥に押し込んで、代わりに声を上げて笑った。

「か、可愛いなどと……某は武人に御座るぞ」
「うん。戦っている時の幸村は格好良かったんだろうな、って思うよ」

見てみたかったな、と400年前に思いを馳せてみる。勇敢な彼がどんな風に戦国の世を駆けてきたのか、その生き様を。

「某は、名前殿にはお見せしとうはありませぬ」
「どうして?」
「平和な世で生きてきたそなたに、殺気立つ戦場をお見せすることなど」
「あぁ、そういうこと」
「あまりにも、酷なもの故」
「そうだよね。私も、人が死ぬところは見たくない、な」

軽い気持ちで考えるものではないのだと、やんわりと教えられる。幸村は、強い。

「日も暮れ始めたし、そろそろ帰ろうか」
「うむ」
「夕飯は和食にしようと思うんだけど、どうかな」
「某は何でも構いませぬ」
「つれないね」
「いや、某は食せぬ故、名前殿のお好きなものを作って下され」
「そうじゃなくて、幸村の好きなものが知りたいんだよ」

覗き込むようにして彼を見れば、その瞳が宙を漂う。戸惑いがちに口を開いたかと思うと小さな声が零れた。

「……甘味が、」
「ん?」
「甘味が好きで御座る」
「じゃあお団子でも買って帰ろうか」
「まっ、誠に御座るか!」
「嬉しそうだね」

全身から喜びを滲み出している彼は、たぶん自分がそれを食べられないことをすっかり忘れている。数時間後の落胆振りがありありと目に浮ぶようで。

やっぱりよそうかなと思い直したところで、幸村が嬉しそうに笑みをたたえたまま独り言のように呟いた。

「某が食せなくとも、好きなものを共有できるとはなんと良きこと」

そうだった。

「私たちは、繋がっているんだったね」

美味しそうなお団子をふたり分買って、帰ったらとびきり凝った和食を作ろう。

自分の作ったものをいっしょに楽しんでくれる人がいるなら、作りがいがあるというものだ。

久しぶりに悶々と献立に考えを巡らせながら、まずはお団子屋さんに向かうのだった。




ぶらり、宛てもなく。

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