昨日の疲れはどこにも残っていなかった。積翠寺近くの温泉街にはいくつか信玄公の隠し湯なんて云われている温泉もあるくらいだから、その効力のお陰なのかもしれない。とにかく、高台の露天風呂から見下ろす夜景は、それはもう目が眩むほどの絶景だった。

最後に行こう、と決めていた上田城。正面に佇む大手門は平成になってから再建されたものだけれど、それでも息を呑むほどの力強さがあった。

「本丸は残っておらぬのだな」

淋しいとも悲しいともつかない口調で幸村が云う。私はひとつだけ頷いて、入ろうか、と先を促した。けれど、門をくぐるその間際でぴたりと幸村の足が止まる。

「どうしたの?」
「いや、この真田石はそのままなのだなと」
「真田石?」

苦笑を零しながら幸村はひとつだけ大きいその石に触れる。隣には黒い立て札に白い文字で「真田石」とそれについての説明書きがされていた。幸村のお父さんがこの近くの太郎山から持ってきたものらしい。幸村もその立て札に目を通すと可笑しそうに笑った。

「某が幼い時からあるのだが、兄上はこれを持っていこうとしたのか」

無茶なことを。楽しそうにそう呟く。幸村の兄、真田信之が松代城へ入城したのはたしか幸村が戦死した後だから、こんな話はまったく知らなかったのだろう。つられて私もからりと笑った。

「微動だにしなかったって、そうとう此処から離れたくなかったんだね」
「父上の情が乗り移ったのやもしれぬな」

優しく目を細める幸村に私はなんだかほっとする。ただどうしても気がかりなのは、彼におかえりと云ってあげられないことだった。



城跡内は鮮やかな新緑がきらきらと陽の光をその隙間から降りそそがせていた。

「春になると上田の桜は誠、美しゅう御座るぞ」
「千本桜まつり、有名だよね」
「む、かような祭りがあるのか」
「うん。お祭りの頃、また来たいな」

幸村と。そんなことばは飲み込んで通りに沿って並ぶ幾本もの桜の木を見上げる。幸村は困ったように眉を下げて、それでも、そうで御座るなと答えてくれた。

「でも、もう少ししたら紅葉も綺麗そう」
「うむ。こがねに色付くけやきは目を瞠るものがありまするな」

季節はめぐって、世界は色を変えていく。日本の四季は本当に美しくて、そのすべてを幸村といっしょに過ごしていけたら、なんて思う。

時々、ずっとこの世界にいたらいいのに、って無性に云ってしまいたくなるのだ。

尼ヶ淵のほうへ降りて、高い石垣の上に築かれた西櫓を臨む。歴史の刻まれた木造のそれは背景の抜けるような青い空を一層際立たせた。

「こっちの櫓は江戸からずっとそのままなんだって」
「再築して下さった方々には感謝してもし切れぬな」

関ヶ原の戦いの後、徳川によって上田城は一度破壊されている。自分たちが培ってきたものを壊されるのは、どんな気持ちだっただろうか。悔しいとか、悲しいとか、怒りとか、たくさんの感情が入り混じって。けれど、それがあって大阪夏の陣の幸村があったのだろう。

「当時はここ尼ヶ淵に、川が通っていたのだ」
「そうなの?」
「いつ水害が起こるかと恐れてもいたが、無くなってしまうとやはり淋しいもので御座るな」

云いながら、川があった辺りに端から端まで目線を流す。今はコンクリートで埋め立てられてしまったそれを、惜しむように。

「しかし、堀や土塁、石垣はほとんど変わっておらぬ。こんなにも嬉しいものなのだな。今もなお残っているものがあるというのは」
「幸村、」
「実を云えば、この日ノ本を見ていると誠に此処が自分の生きた世だったのかと、偶に疑いたくなってしまうのだ」
「……」
「変わらぬものなど無いのだと、頭では判っておるのだが」

時が立てばどんどん物事は移り変わっていく。それでも永遠なんてことばがある限り、私は変わらないものもあるはずだって信じていたい。そう、例えば。

「……ねえ、幸村」
「何で御座ろう?」
「好きだよ」

一瞬だけ目を丸くした幸村は、すぐその頬を赤く染めていく。

「い、いきなり何を申すのか」
「好きだなって、思っただけ」

例えば、この気持ちはいつになったって、どんなに時が流れたって、変わらないだろう。断言したって良い。

「神社があったよね、そっちのほうも見てみたいな」
「名前殿、」
「うん?」
「某も、名前殿が好きだ」

まっ直ぐな瞳に射抜かれて、今度は私が顔を赤くする番だった。ごまかすように、

「ありがとう」

と笑って、神社のほうへと歩き出す。そうでもしないと、泣いてしまいそうだったから。



日が暮れる頃、上田を出た私たちがアパートに戻ったのは日付も変わるような時間だった。

シャワーだけ済ませて風呂場から上がる。高く昇った月が薄っすらと照らす暗い部屋。髪を乾かしながら、幸村が現れた夜に似ているなと思った。ふと、空気が揺れる。

「某、やっと判り申した」

幸村が低く、穏やかに零した。ドライヤーのスイッチを切って、判ったって何が? と隣に座る幸村を見やれば、彼は幸せそうな笑みを浮かべていて。けれど、口角の上がった薄い唇から紡がれることばをなぜか聴きたくないと思う。

「某は恋がしたかったのだ」
「……え?」
「きっと、生きているときには出逢えなかった、恋焦がれるこの気持ちを知りたかったので御座る」
「……幸村、それ、」

彼の目を見ることが出来ずに俯く。未練は、果たせたのだ。それの意味するところが何なのか、判らないほど私は子どもじゃない。でも、それを簡単に受け入れられるほど私は大人でもなくて。

「名前殿に出逢えて、本当に良かった」
「幸村、やめてよ」
「某はまこと、果報者に御座る」
「それ以上、云わないで……っ」
「云わせて下され。……恋慕を破廉恥だと遠ざけて生きてきたのだ」
「聴きたく、ないよ」

耳を塞ぎたくなるような衝動に駆られる。それなのに、決して聴き逃してはいけないような気がして、どうしようもなく悲しくなった。

「命を失って初めてそれを後悔したのやも知れぬ。あの時代に恋はあったかいものだと謳う者がいたのだが、そんな某には判るはずもなかったゆえ」
「ゆき、むら」
「死して尚も未練があるからとこの世に留まるなど、人間とはまこと欲深い生き物であるな」

つつ、と幸村の指が私の頬を撫でる。せっかく昼間、我慢したというのに。その分までがぽろぽろと想いといっしょに溢れて出ていく。

「泣かないで下され、名前殿」
「だって……っ」
「嬉しかったで御座る。名前殿と共にこの時代を過ごせて」
「私も、嬉しかったよ。楽しかった」
「ならば、もう涙を流しなさるな。某が消えるその時は笑って欲しいのだ」

無理やり涙を拭って頷いた。もともと彼はこの世にいるべきじゃないのだ。いつかは居なくなってしまうなんてことは、判っていたはずなのに。覚悟していたはずなのに。それなのに、やっぱりこころのどこかではずっといっしょに居られるとも思ってしまっていたのだ。信じて、いたかったのだ。

「もう夜も更けているゆえ、そろそろ眠られたら如何か」
「眠くないよ」
「しかし、疲れたであろう」

子どものように首を横に振る私に、幸村はただ困ったように笑う。そんな表情を見せられたら、もう何も云えなくなってしまうではないか。

「……じゃあ、幸村といっしょに寝たい」
「なっ、おっおなごと床を共にするなど……!」
「破廉恥じゃないよ。お願い、いっしょに布団に入るだけだから」

最後までちゃんと幸村を感じていたい。その温かさを、優しさを。

「……わかり申した」
「ありがとう」




はらり、頬を伝う。

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