粛然とした空気があたりを包み込んでいた。

山梨から長野を巡る旅行をしよう。前々からの約束だった。朝早くに家を出て、お昼前には甲府に到着。駅の北口からずっとまっ直ぐ歩いたところが史跡として残された躑躅ヶ崎館の跡地、武田神社。周りは涼やかな濃い緑に囲まれている。水堀に掛かる神橋を渡ってまっ白な鳥居をくぐると、参道の先には重く、静かに拝殿が佇んでいた。

「随分と、変わっておるな」
「立て直されているからね」
「しかし、この雰囲気。お館様の残された荘厳さは何も変わらぬ」

幸村が目を閉じる。落ち着き凛とした姿勢は、この空間に漂うすべてのものを全身で感じているようにも、信玄公と共に生きた戦乱の世に思いを馳せているようにも見えた。何もかもをただただ見守り、静寂を保つ木々たちが風にそよぐ。とてもこころの大きな人だったのだろうな。そう、この土地に残る目には見えない当時の面影が思わせた。

「お参り、していくでしょう?」
「そうで御座るな」

参道の途中に設けてある手水舎で両の手を清める。幸村がその様子を興味深げに覗き込んでくるものだから私はつい、手を出して、なんて云ってしまうのだ。差し出された手のひらの上で柄杓を傾けた。

「うお、」
「幽霊には必要ないのかもしれないけど、一応ね」
「かたじけない」

ぱしゃりと透けて落ちた水が石の色を濃くする。口を漱いでから、柄杓の柄にも水を流した。顔を上げると、足元に広がる冷たさを幸村がじっと見下ろしている。財布から適当な小銭を2枚取り出して、片方をその広げられたままの手のひらにゆっくりと置く。今度はちゃんと受け止めて、それでも不思議そうな目に私は、

「お賽銭」

とひと言答えた。きゅ、と彼がそれを握り込んだのを確認して、拝殿へと進む。

「鈴、鳴らして。幸村」
「某がで御座るか」
「うん」

幸村の手が太い綱を掴んだ。からん、からん、と優しく、清らかな音が響く。正面に武田菱が掘られた賽銭箱に硬貨を落とした。鈴よりも軽く、薄い音。続いてもうひとつ隣から投げ入れられる。

二拝二拍手、目を閉じて、願う。どうか、幸村がこの世界の束縛から解かれますように。……それが本心なのかと問われたら、私は潔くいいえと答えるだろう。私は、ずっと彼といっしょに居たいと思っている。それでも、願うべきはやはりそれではないのだ。どうか神様、健気な幽霊を救ってあげて下さい。それから、一拝。

目を開けて隣を盗み見る。静かに瞳を閉じている幸村もまた、何かを一心に願っているようだった。ただただ、曖昧で朧げなその存在。それでも私たちは願わずにはいられないのだ。



拝殿から外れて井戸を過ぎ、水琴窟。水堀もそうだけれど、この和やかで澄んだ時間を作り出しているのは神社を巡るように流れる綺麗な水やそれを取り囲む自然たちだった。

地下から伸びる竹筒に幸村がそっと耳を近づける。低く枝を垂らす楓の木がさらりと揺れた。

「音、聴こえる?」
「名前殿も聴いてみて下され。美しゅう御座るぞ」

柔らかく微笑まれ、云われたとおりに耳を傾けた。しばらくすると雫が落ちて鼓膜を微かに震わせる。澄み渡った、透明な音。地底から高く、時折低く不規則に伝わってくる凛と冷たく綺麗な音色に、時間を忘れてしまいそうになる。ずっと聴いていたいと思うくらい。

「癒しだ、ね」
「心身ともに浄化されたような気分になりまするな」

穏やかな表情にこころが落ち着く。行こうか、と手を差し出せば優しく包み込んでくれた。

奥へと進むと更に緑が色濃くなる。ひとつ道を折れ曲がれば辺りは見渡す限り草花が散りばめられた草原。遠くには空の下に山々が見える。拝殿側のほうとは別世界の風景に息を呑んだ。彼が生きた戦国時代にも、こんな景色が広がっていたのだろうか。

砂利道を進んだ先には白い立て札。

「『お屋形様の散歩道』だって」

おお、とどことなく嬉しそうな声が上がる。本当にこの道がお館様の散歩道だったのかどうかは知る術もないけれど、景色を眺めながら頬を緩めて歩く幸村に私も自然と笑みが零れた。

「……もし、今の某をご覧になったら、お館様はなんと仰るだろうか」

幸村は困ったような、それでも清々しい笑顔を浮かべて空を仰ぐ。私もつられて顔を上げた。今日の空は抜けるように青い。

「お叱りに、なられるかもしれぬな」
「怒ると怖かった?」
「いや、恐ろしいと思ったことは御座らぬ。某は、あの拳を受けられることが嬉しゅう御座った」

よく、殴り合っていたのだ。はにかみながら発せられたその台詞を、思わず取り零しそうになった。反射的に、え? と訊き返してしまう。

「拳でしか伝わらないものがありますれば。お館様は自らその拳を振るって未熟な某に様々なことをお教え下さったので御座る」
「痛く、なかったの」
「痛う御座るぞ」
「わあ……」

無意識に眉が寄る。そんな私を見て幸村はくつくつと喉を鳴らして笑った。私にしたら笑い事ではないのだが、彼が楽しそうならそれでいい。

そうして、ぐるりと境内を一周して表へと戻る。ふと、幸村が遠慮がちに口を開いた。

「名前殿、」
「なに?」
「その、先ほどから気になっておったのだが」

焦げ茶色の瞳が向く先は紅い唐傘が立つ緋毛氈の緑台。小屋に掛かる信玄茶屋の文字。ああ、と思わず笑ってしまう。

「少し、休んでいこっか」
「よ、よいので御座るか……!」
「ちょうど甘いものも食べたい頃合だもんね」
「か、かたじけないっ」

緑茶セットと抹茶セットをひとつずつ頼んだ。不思議そうな女将さんに幸村はそわそわとどこか落ち着かないけれど、私はさほど気にしない。縁台に座って待っていると、お茶とそれぞれお菓子が乗った盆を運んできてくれた。緑茶には信玄餅、抹茶には黒玉。

「お館様は餅の名にもなっておるのか」
「信玄餅も黒玉も甲府の名物だね」
「美味そうに御座るな」

じゃあ、頂きます。申し訳なさなど感じる必要はないということはもう知っているから、そう云って抹茶から口を付けた。そんな私に幸村は終始、優しい目を向けてくる。そうして私は人知れず心臓の鼓動を早くさせるのだ。

「次はさ、信玄公のお墓に行こうと思うんだけど」
「墓……?」
「うん。行きたくない?」
「いや、名前殿さえ良ければ墓参させて下され」
「もちろん」

お花を買っていこうか、信玄餅の最後ひと口を嚥下してそう零す。

「何がいいかな」
「某、花はよく判らぬゆえ」
「そうだよね。じゃあ、綺麗なものを掻い摘んで選んだらいっか」
「うむ。きっとお館様なら何でも喜んで下さるはず」

幸村の顔がほころぶ。信玄公をこころから慕っていることが、いつでも彼の発言や表情、すべてから伝わってくる。その度に私は現代にはない温かさを感じた。

「お墓参りしたら、甲斐善光寺、積翠寺って巡って近くの温泉街に泊まるつもりでいるけど、それでいいかな」
「なんと、色々調べて頂いて申し訳御座らん」
「ううん。好きでそうしてるんだから、それでいいの」
「ありがとう御座いまする」

いいえ、と笑って黒玉を口の中へ放った。滑らかな甘さが舌に広がる。

「甲斐善光寺からはタクシー使うけど、平気?」
「たくしー?」
「お金払うと乗せてくれる車」
「おお! 車は初めてに御座るな!」
「電車より少し、狭いだけだよ」

最後に残る甘い味を緑茶で流して立ち上がった。

「さて、日が暮れる前に廻っちゃわないとね」
「時間はまだまだありますぞ」
「どうかな、楽しい時間はあっと云う間だよ」

それはもう、切なくなるほどにさらさらと滞ることなく流れていってしまうものなのだ。



しとり、清らに。

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