想い人、そのことばの意味を理解するのに、数秒の時間を要した。

ただ、好きな人は誰か、と訊かれただけなのに、胸が苦しい。心臓がぎゅう、と圧縮される。どうしたらいいの。

「申し訳ありませぬ、忘れて下され」

なにも答えることのできない私に、幸村が眉を下げて笑った。彼らしくない笑顔だ。

「ゆき、」
「少し、頭を冷やして参りまする」

私が落としたペンを拾ってテーブルに置くと、彼はスッといなくなってしまった。変な感じがした。幸村はどうして、あんなにも切ない顔をするのだろうか。

――私はどうして、こんなにも動揺しているのだろうか。

息が詰まる。外に出よう。買い物でもしたら、気分転換になる。立ち上がり、部屋を見渡した。

「私も、ちょっと出掛けてくるね」

返事はない。

「……すぐ、帰ってくるから」

留守番しててね。そう残して鞄を肩にかける。目に見えないだけで、不安になる。声が聴こえないだけで、泣きたくなる。

やっぱり、私は。


ドアを開くと、雨の音が一層強くなった。ざああ、とアスファルトを打つ音は、ここ数日聴き続けてきたものよりも大きい。

空色の傘を差して、濡れた地面に踏み出す。ぴちゃり、ぱしゃり。一歩、足を進めるたびに水の音が跳ねた。

……幸村に惹かれ始めている。少し前から感じていたことだ。でも、もうきっと「惹かれてる」なんてそんな域じゃない。私はもう、彼が好きで好きで仕方なくなっている。完全に異性として意識しているのだ。

まるでその気持ちを蹂躙するようにとにかく歩いた。

ふと、目に入ったものに足を止めた。小さなショーウィンドウに飾られたペアのマグカップ。虎のぬいぐるみを買ったお店だ。幸村が割ってしまったから、最近はずっとグラスを使っていたのだけれど、そろそろ新調しようと考えていたのだ。

扉を開けば、相変わらず童話に出てくるような空間が広がっていた。窓際に佇むレッドとブラウン。手に取れば滑らかな陶器が馴染んだ。丸みを帯びたデザインで、縁に回されたレースのモチーフが可愛い。

前に使っていたマグカップは、アイボリーの落ち着いたものだったけれど、たまにはこういう色もいいかもしれない。赤は、幸村の色だ。

……そうしよう。ひとり頷く。赤は、幸村。茶色が私。彼が使うには可愛いすぎるけど、どうせ形だけなのだから。

「これ、下さい」

レジに持っていくと、いつもの女の人が丁寧に包んでくれた。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「また来てね」

にこやかにそう云われて悪い気はしない。店を出る前、お買い上げありがとうございました、という声が届いた。ぺこりと軽く会釈をして扉を開く。

「あれ、名前ちゃん?」

傘を開いたところで名前を呼ばれた。振り向けば、灰色の霞んだ街に、映える橙色。

「猿飛くん」
「どうしたの? こんなところで」
「いや、ここ地元だから」
「うそ! じゃあこっから家近いんだ」
「うん、すぐそこ」

アパートがあるほうを指差す。へえ、なんて猿飛くんが声を上げた。

「猿飛くんこそ、どうしたの?」
「ちょっと、散歩」
「え、家、この辺なの?」
「ううん、全然。5駅離れてるぜ」
「なんでまたこんなところに……」
「なんでかね」

へらりと笑う彼は相変わらず掴めない。この間の一件もあって、私としては少し気まずいのだけれど、本人はあまり気にしてなさそうだった。猿飛くんの目が、何かを探すようにぐるりと周囲を舐める。

「今日は、居ないんだね」
「へ?」
「いっつもくっついてるじゃない」
「えっと……、なにが?」
「とぼけなくてもいいのに」

ひとつ声が低くなった。もしかして、もしかしなくとも、彼は幸村のことを云っているのだろうか。

「……み、見えてたの?」
「見えはしないけど、気配……かな」
「け、はい」

そ、気配。彼は軽く云うけれど、そのことばは私に重くのしかかった。よりによって猿飛くん。……いや、猿飛くんだからこそ、なのかもしれない。

「でも、確信したのは今」
「え?」
「ちょっと、話さない?」
「いい、けど」

了承して、近くのカフェに入ることにした。雨だからか客足は少なく、店内がやけに静かに感じる。猿飛くんはコーヒーを、私はモカを注文した。

「あの、」
「あのさ」
「……うん」
「空気がね、違うんだ」
「空気……?」

首を傾げる私に、猿飛くんは続ける。その表情はどこか切ない。

「大学で、名前ちゃんに泣かれた日あったでしょ?」
「え、あ……うん。あのときは、ごめんね」
「いいって。で、その時に『あれー、今日の名前ちゃん何か雰囲気違うなあ』って思ったわけ」

猿飛くんがコーヒーをすする。

「懐かしいような、心地好いような、それでいて、思い出したくないような。そんな感じで」
「猿飛くん……」
「それに時折、名前ちゃんが変な行動するからさ。なにも無いところ見つめてたり、急に独り言云いだしたり」
「……」

やっぱり、変に思われていたんだ。思い出すと恥ずかしくなって、私はじっと自分の手を見つめる。

「あと、関係ないかもしれないけどあの日から変な夢を見るんだ」
「ゆめ?」
「うん、あんまり内容は覚えてないんだけどね」

情けない話、朝起きるといつも泣いてる。猿飛くんは笑って自分を茶化す。その姿が痛々しい。

「きっと、魂が憶えてるんだね」
「へ……」
「悔やんで、るんだよ」

幸村が、最期に猿飛くんに会いたかったように、きっと猿飛くんも。主を最期まで守れなかったことに、後悔しているのだ。

今の猿飛くんにそれが判らなくても、どこか奥深くで感じているんだ。幸村を、探している。
「よく、わかんないや」
「……そうだよね、ごめんね」
「ううん」

でも、と猿飛くんは続ける。

「俺様は確かに、名前ちゃんについていた、その気配を求めてるんだと思う。多分ね。じゃなかったら、ただの散歩でこんなところまで来ない」
「無意識だったの?」
「半分ね」

私はもう一度、彼に幸村と会ってほしいと思った。今、幸村はどこにいるんだろう。幽霊なのに、私に憑いてるのに、なんで側にいないのだ。

その時ちょうど、携帯が鳴った。着信音が静かな店内に響く。

「ちょっと、ごめん」
「お構いなく」

そのことばを聴いて携帯のディスプレイを確認する。思わず鳥肌が立った。着信はひとり暮らしの自宅から、だ。でも、心当たりはひとつだけある。

通話ボタンを押して、耳に携帯を当てがった。





ぐるり、君を探して。

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