雨だ。ここのところ天気が良かったから、ひどく久し振りに感じる。窓越しに聴こえる地を打つ音が心地好い。

「雨で御座るな」
「うん」

雨音に閉ざされた静かなリビングに幸村の声が低く響いた。彼の声はどこからともなく聴こえてくる。耳元のような気もするし、とても遠くのような気もする。目を瞑ると音だけでは彼がどこに居るのか判別がつかないのだ。こうしてすぐ隣にいるというのに。

窓を背に体育座りをする私の右隣。幸村は首を捻って窓の外を眺めている。その表情はどこか憂いを帯びていて、ああ、こういう顔もするのだなと思った。

「雨、嫌い?」
「いや、そういうわけでは」
「そう」

そんな顔で雨を見遣るものだから、私はてっきり幸村は雨が嫌いなのかと思った。もしくは、苦手か。

ガラスを打つ雨粒が薄暗いフローリングに淡い影を映す。それを背景に私の影は黒く佇んでいるのに、その隣に幸村はいなかった。窓にはちゃんと彼の姿が映るけれど、これもきっと私にしか見えないのだろう。

「……そうだ、幸村」

ちょっと待ってて、とひと言、声をかけて立ち上がる。ただふたりでこうして静かに過ごすのもいいけれど、せっかくだから何かしよう。そう思い立ってこの間買った絵本を取りに行こうと自分の部屋へ向かった。

虎のぬいぐるみの側に横たえてあるそれを手に取る。

「ことばを教えて下さるのか?」
「ひっ」

突然の声に肩が跳ねた。変な悲鳴を上げた口を慌てて手で押さえる。てっきりリビングで待っているものだと思っていたのに。

「待っててって云ったのに」
「もっ、申し訳御座らん」

じとりと睨め上げれば、幸村はしゅんとして視線を左下辺りに落とした。

「気になったゆえ……」
「いや、別に良いんだけど、ね」

そんなに落ち込まれるとなんだか私が悪いみたいだ。もちろん幸村が悪いわけでもないのだが。

「びっくりしただけだから」
「そうで御座るか」
「だって幸村、足音聴こえないから」

まっ赤な具足に視線を移す。色だって温もりだってあるのに、彼には質量だけが無いのだ。その場で小さく足踏みをする幸村も、神妙な面持ちで自分の足元を見た。

「うむ…」
「気分悪くした?」
「いや、仕方のないことゆえ」

今更どう思うことなどありませぬ。苦笑とも取れる笑顔で幸村はそう云った。そっか、と私もひと言で返す。ことばなんて見つからない。見つかるわけがない。私にはどうしたって幽霊である彼の気持ちなど判らないのだ。ただ、感情だけが弱く繋がっているだけで。



絵本のタイトルは「人魚姫」。誰もが一度は聴いたことがあるような有名な童話だ。リビングに戻って雨の音をバックミュージックに、悲しい人魚のお話を幸村に読んで聴かせた。

最初こそ、ひらがなを覚えようと彼はひとつひとつ一生懸命に文字を目で追っていたけれど、ページが進むにつれて段々と物語のほうに惹き込まれていってしまったらしい。

人間の王子に恋をしてしまった人魚姫。その美しい声と引き換えに、魔女に頼んで人間の足を手に入れる。けれど王子と結ばれることのなかった彼女は呪いによって死す運命に。王子を殺してその血を浴びれば呪いは溶けると姉達に短剣を渡されるも、自ら海に身を投げて泡になることを選んだ。

そんなお話。

読み終えて、感想は? と私が尋ねると幸村は涙が溜まった目で私を見てから、ひとつだけ静かに頷いた。

「某と人魚姫殿は似ているのやもしれませぬな」

さぞやお辛かったことであろう。表紙の人魚姫の足をそっとなぞる紅い手に、ちくりと胸が痛んだ。どうしてこのお話を選んでしまったのだろうかと、私は少なからず後悔した。童話の絵本なら他にもたくさんあったというのに。

儚く綺麗な人魚姫を、やはりどこかで幸村と重ねていたのだ。本質はまったく違うけれど、人ではないことも切ない死すらも。彼もいつかは私の前から泡のように消えるのだろうと、考えたくもないことが頭をよぎった。それでは、駄目なのに。

「ごめん、ね」
「……何を、謝ることがあるのだ」
「無神経だったかな、と思って」
「かようなことは御座らぬ。云ったであろう、今更どう思うこともないと」
「そんなこと、ないでしょう」
「名前殿?」

幸村が不思議そうに私の顔を覗き込んだ。私は彼の目を見ることが出来なくて俯く。

「哀しくない、はずがない。私はどうして、いつも、行動に移すまでそれがどう人を傷つけてしまうか、考えられないのかな」

顔を上げて下され、と穏やかな声が降ってきた。首をゆるゆると横に振れば、小さな溜め息が聴こえた。

「先ほどのことも、気にしておられるのだな?」
「……」
「名前殿が責任を感じることなど何もないのだ」
「……ごめん」
「顔を上げて下され」

同じように繰り返され、私はゆっくりと顔を上げた。幸村は困ったように笑うと閉じられた絵本の1ページ目をもう一度開く。

「今の文字を教えて下さるので御座ろう?」
「幸村……」
「よろしくお頼み申す、名前殿」

ぺこりと軽く頭を下げられた。そんな幸村に私は急いで紙とペンを用意しに再び部屋へと向かった。今度こそちゃんとここで待っていてね、と注意は忘れずに。

優しい幽霊に私は甘えてばかりだ。





こぽり、泡になる。

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