朝、目が覚めたら隣にきみが居る。それがもう最近の私にとっては、当たり前になっていた。当たり前すぎて、その尊さに気付けなかった。
「幸村……?」
おはよう。きみが向ける温かな挨拶が私の一日の始まりだった。いつものように、私のそばでそう云ってほしい。私が好きな笑顔を見せてほしい。
部屋の中、ベランダ、バスルーム、キッチン、リビング、どこを探しても、あの紅は見当たらない。幸村、ゆきむら。頭の中ではぐるぐると彼の名前が回る。どうして。表れた時も去る時も、いつでもきみは唐突すぎる。クローゼットの引き出しやサイドボードの中まで開け放して中身を引っ掻き回した。
それでも現れることはなく、焦り乱れていた手がついに止まる。そのまま膝の力が抜けて崩れるように冷たいフローリングに座り込んだ。
「幸村、ゆきむらあっ……」
何度呼んでも返って来ない返事に私の涙腺は緩み始めた。幸村が居ないだけでとてつもなく広く感じる部屋が、私は今ひとりなのだと嫌でも感じさせる。
ぼろぼろと止まらない涙といっしょに嗚咽が漏れ始めた頃、目の前の空気がふわりと揺れた。はっ、として俯いていた顔を上げる。これは、どういうことなのだ。
「ゆっ、ゆき……っ?」
目の前で気まずそうに佇む彼は、今まさしく私が探し回っていた彼だった。もう一度その姿を見たいと必死で願ったはずなのに、いざ現れると私の思考はぴたりと回路を失う。
「す、すまぬ……名前殿」
「え……」
状況が全く把握出来ずにいる私の前に幸村は正座して謝った。いきなり謝られても何がどうしたというのか。本当、唐突だ。
「そ、某、姿は自由に消すことが出来るのだが」
バツの悪そうな顔をして幸村がそんなことをのたまう。ああ、そうだった。彼は幽霊だったのに。実際、初めて幸村と出逢った夜に私は彼が姿を消すところを見ている。思い出して、自分の酷い勘違いに呆然とした。
「突然に某が消えたら名前殿はどんな反応をして下さるだろうか、と何とも無しに悪戯心が芽生えてしまい、しばらくは名前殿が某を探して下さっている姿を拝見しておりました」
ぎゅ、とその膝の上で拳が握られる。
「しかし……ま、まさか、泣き出してしまうとは考え及ばず、出るに出られなくなってしまった次第に御座ります……」
ひとつひとつ、ことばを選ぶように詰まりながら話してくれた幸村は最後に深々と頭を下げた。
「浅はかな行為で名前殿を傷つけたこと、お許し下され!」
すっと強張っていた身体の力が抜けて、肺を圧迫していた空気を吐き出す。
「よかっ、た……」
「は……」
「消えちゃったのかと、思った」
心の底からのことばだった。さようならも云えずに、お別れになってしまったのかと思ったから。本当に良かった。よかった……。
安心したらまたひとつ涙が零れた。幸村と出逢ってからもともと強くなかった涙腺は、さらに脆くなってしまった気がする。前はこんなにも泣くことなんて、なかったのに。
「なっ、泣かないで下され……っ」
「泣くよ、ばか」
「ばっ、ばか?!」
「ばかだよ! ばか、あほ!」
投げ遣りに頭の悪そうな暴言を投げつける。彼は大きな目を真ん丸に見開いて、口をぽかんと私を見やる。その様に、ぷっ、と笑いが吹き出た。同時に幸村もぴんと張っていた背を丸めて、くつくつと笑い出す。
「幼子のようで御座る」
「煩い。でも、これくらい赦されるでしょ」
「それもそうで御座いますな」
「二度と冗談でもこんなことしないでよ」
「はい、肝に銘じておきまする」
「……本当に心配したんだからね」
眉をハの字にして目もとを拭っている幸村に、そっぽを向いて云い放つ。それにしても、堅実な人だと思っていたのに、わりとお茶目な面もあるものだ。そんな彼の素とも云える一面を垣間見れて嬉しい反面、もうこんな肝の冷える思いはしたくないとつくづく思った。そんな私を見て、幸村は再度居住まいを正す。
「不謹慎ながら、嬉しゅう御座いました」
ふんわりと柔らかく笑った幸村に私はもう目を離せなくなる。自分でも顔が熱く火照るのが判った。こんな風に優しく笑う彼が、もうこの世には存在しない人だなんて信じられない。
「……ばか」
「充分存じておりますゆえ、何か罰を与えて下され」
しかしその笑顔は罰を与えられる者のそれではない。
「じゃあ……罰として部屋掃除手伝ってもらう」
「名前殿と共にということなら某にとっては罰のうちに入らぬが」
「私がそれがいいの」
部屋をぐるりと見渡せばそれはそれは酷い有り様で。どれだけ自分が取り乱していたのかを物語っていた。もう二度と彼と笑い合うことなどないだと、数分前の私は本気でそう思ったのだ。
「片付けの前に、朝餉に致そう」
髪もぼさぼさに御座る、なんて私の頭を撫で付ける大きな手。子ども扱いされているのだと判っても、それが妙に心地好くて。
今日も、いつも通りの朝を迎えた。
ちらり、垣間見る。
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