朝、半兵衛さまのお部屋を訪ねるも、彼の姿はなかった。がらんどうの畳の間を見て、そういえば、きょうは半兵衛さまは秀吉さまと朝餉をとる日だということを思い出す。
 どうやらまだ秀吉さまとご一緒と見えるが、とうに食事は終えているだろう時刻だ。考えた末に薬湯をふたりが居られる間までお持ちすることに決めた。
「秀吉さま、半兵衛さま、やくにございます」
 女中が控えるひとつめの襖をくぐり、さらにその奥の間へと呼びかける。緊張ですこし声が震えてしまった。
「む、入れ」
 低い声が返ってきて、わたしは慎重に襖を開けた。頭を下げて、薬をお持ちした旨を告げる。
「ああ、ありがとう、やくくん。こちらへ」
「失礼いたします」
 半兵衛さまの傍らに膝をつき、盆のうえの湯呑みを渡す。それから、もうふたつの湯呑みには茶をそそいで、おふたりそれぞれにお出しした。
「茶まで用意してきたのか」
「やくくんの淹れる茶は格別だよ、秀吉」
 湯呑みを手にした秀吉さまに、半兵衛さまが答える。秀吉さまは茶をひとくち啜ると、ふむ、とうなずいた。
「たしかに美味い。半兵衛は毎日、この茶を飲めるのだな」
「ふふ、僕の特権さ。そうだろう? やくくん」
「そ、そのような……ありがたきしあわせにございます」
 微笑みかけられ、つい俯いてしまう。顔が熱い。
「そ、それでは、失礼いたしました」
 秀吉さまと半兵衛さま、おふたりの水入らずな時間を邪魔してしまったこともそうであるけれど、どうにも居心地が悪くて、わたしは早々に腰を上げる。
「やくよ」
 ひとつお辞儀をして、襖へと向かったところで秀吉さまに呼び止められた。恐れ多くも秀吉さまは立ち上がり、わたしの傍まで歩み寄ってくださる。
「はい、なにか……」
「半兵衛を、くれぐれも頼むぞ」
 不思議そうにこちらへ目を向ける半兵衛さまには聞こえぬような声音で、秀吉さまは云った。それは、半兵衛さまの未来を願うとともに、わたしへの信頼も灯した眼差しだった。
 その期待に、応えたい、と思う。
「この身が在る限り、全力を投じ、お尽くしいたします」
「心強きことだ。うむ、お前なら安心であろう」
「勿体なきおことば、ありがとうございます」
 では、失礼いたします、と再度一礼して部屋をあとにする。秀吉さまの想いは深く、わたしの胸に決意を残していった。

 その日の夕方、わたしの部屋に家康さまが訪ねてきた。夕方と云えども陽はやっと傾き始めたばかりで、空はまだ薄青く、橙色の光が縁側からあたたかく差し込める頃である。
「家康さま、どうされました?」
「いやあ、三成との手合わせで少々捻ってしまったようで」
 恥ずかしそうに笑って、家康さまは利き手を握ったり開いたりしてみせた。三成さまのほうはもうほとんど本調子で、いままで以上に鍛練に力を入れているようだ。
「見てみましょうか」
「ああ。頼むよ、曲直瀬殿」
「ではこちらに」
 家康さまを明るい縁側のほうへ促して、わたしは水を汲みに庭へ降りた。
 父がまだ健在であった頃、なにかと必要になるだろうからと、秀吉さまがこの治療室の庭奥に井戸を造るよう勧めてくださったらしい。
 その、ここへ訪れる兵ひとりひとりへの想いから造られた井戸へ、桶を落とす。水を汲み上げ、べつの桶へと移し替える。不規則に揺れる水面下が、やわらかな陽光をきらきらと反射させた。
「曲直瀬殿、重いだろう、手伝おう」
 桶を両腕で抱えるわたしを見て、家康さまが駆け寄ってきた。わたしは首を横に振る。
「そんな、家康さまは怪我人にございます。安静にしていてくださいませ」
「しかし、」
「その腕で桶を運べるとは思えませぬ」
 目線だけで彼の痛めた手を指し示すと、家康さまはその手とは反対の手で極り悪そうに自分の首の後ろを撫でた。
「わかったわかった。おとなしくしているよ」
「そうしてくださいませ。それに、こう見えても力仕事は得意にございますので、ご心配には及びませぬ」
「その割りには足取りが覚束ないな。腕も細くて折れてしまいそうだ」
「それは、たしかに、家康さまの逞しさには到底敵いませぬが……」
 縁側に桶を降ろす。ドン、とけっこうな重さがあるために少々乱暴な音がした。水面が衝撃に波を打ち、大粒の飛沫を跳ねさせる。
「お座りください」
 左側に桶、右側に家康さま。正面から彼の腕を取って、手首を固定しながらゆっくりと手のひらを上へ返す。つぎに手の甲を徐々に下へと押す。
「いっ! いたたたたっ!」
「痛いですか?」
「痛い痛い!」
 ぱっ、と解放すると、家康さまの大きな手は瞬時に引っ込められた。鼈甲を思わせる丸い瞳が怨めしそうにこちらを睨む。
「容赦がないな……」
「失礼いたしました。腫れているようですし、熱も持っているみたいなので冷やしますね」
 桶の水に手拭いを浸す。春先の水はまだまだ冷たく澄んでいて、捻挫を冷やすには申し分ない温度だ。家康さまの腕を再度とって、固く絞った手拭いを宛がった。
「小半刻ほど冷やします。そのあとで固定いたしますが、手首はできるだけ動かさぬようにしてくださいませ」
「わかった、ありがとう」
「いえ。腫れが引くまでは毎日数刻置きに冷やしましょう」
 熱を吸収して温くなる手拭いを、小まめに水に浸け直す。その動作が三度ほど繰り返されたとき、家康さまがぽつりと零した。
「しかし、懐かしいものだな」
 穏やかな声だった。
「武器を捨てたばかりの頃、よくこうして曲直瀬殿に手当てをしてもらった」
 眩しいものでも見ているみたいに家康さまは目を細める。わたしが豊臣に仕え始めたばかりの頃、家康さまはまだ体術に不馴れであった。三成さまと手合わせをしては打ち身を負い、時には真剣による斬り傷で血を流し、それでも武器を再び手に取ることはなかった。
 そしてこれからもないのだろうと思う。いまや、彼はこんなにも逞しくなっている。
「曲直瀬殿」
「はい」
「ワシはやさしい、絆のある世をつくりたい」
「それは、よきことにございますね」
 しかし、明るい夢を語っているはずの表情には、微かに苦い色が滲んでいた。思い詰めた瞳は影を落とし、どこか遠くを見つめている。戦や政に対してあまり知識のないわたしは、その胸中を察してあげることができない。
 やさしい、絆のある世。
 それでも家康さまのことばは、やわらかな響きでもって、わたしのこころを仄かにあたためてくれた。
「やくも、そんな世を見てみとうございます」
 気づけばそんな科白が口をついて出ていた。




合はせた手と手と

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