夕餉のあと、半兵衛さまに薬湯をつくって持っていくと、部屋に入るよう促された。半兵衛さまは布陣図を広げ、その上に碁石を遊ばせている。わたしは隣に腰を下ろしてから、湯呑みをすすめた。
「ありがとう、いただくよ」
「熱くなっておりますゆえ、お気をつけて」
「ああ」
 紫の紅が引かれた唇が湯呑みの淵につけられる。半兵衛さまは少しずつ薬湯を飲み干すと、ことりと静かに湯呑みを置いた。
「相変わらず、慣れない味だ」
「良薬口に苦し、と云いますれば」
「そうだったね」
 半兵衛さまが笑う。それだけでわたしの顔は微熱を昇らせるのだった。半兵衛さまの笑顔はいつも儚げで、ひどく尊い。
「ごらん、やくくん。これが朝鮮だ」
 世界への第一歩だよ。
 云いながら、半兵衛さまが地図を指先で軽く叩いた。
「そしてこれが日ノ本だ」
 指先をすっと滑らせる。たったそれだけの所作があまりに流麗で、思わず見蕩れてしまうほどだった。白い指先は地図に描かれた小さな小さな大陸を指し示している。
「なんと……大きゅうございますね、朝鮮は」
「そうだろう、世界は広い。それを秀吉が統べるんだ」
「夢のようにございます」
「すぐに現実になるさ。いや、して見せるよ」
 世界を語る半兵衛さまはとてもやさしい表情をしていた。秀吉さまの夢は半兵衛さまの夢でもあるのだ。
 素敵だ、と思った。
 半兵衛さまが望むものを、わたしも望みたい。半兵衛さまが見ている先の世を、わたしも見てみたい。
 だから、そのために。わたしはこの方の命をすこしでも長らえさせることに尽力しよう。あらゆる手を尽くして彼の病と闘おう。
 いつの間にか、ふたりの夢はわたしの夢にもなっていた。

 思っていたよりも長居してしまった半兵衛さまの部屋を失礼して、今度はべつの方の診察へと向かった。目的の部屋の前。襖の向こうに呼びかけると、入れ入れ、とゆっくりと手招きでもするような声が返ってきた。
「失礼致します。お加減は如何でしょうか、吉継さま」
「上々よ」
 軽やかな返事を聴きながら襖を閉め、顔を上げる。そこには僅かに目を細めて笑う吉継さまと、熊のような大きな男のひとがひとり。
「なんだ、やくか。久しぶりだな」
「お久しゅうございます、官兵衛さま」
「こんな刻に刑部の見立てか?」
「やれ、わかっておるなら早々に立ち去れ」
「云われなくてもそのつもりだ」
 じゃあな、やく。気さくに手を上げると官兵衛さまは部屋を出ていかれた。すこし猫背気味な後ろ姿が襖をしっかりと閉めたことを確認してから、わたしは吉継さまに向き直る。
「包帯、お取り替えしましょうか」
 薬箱から真新しい綺麗な包帯を取り出せば、吉継さまは困ったように小さく笑った。

 風通しのいい縁側。濡らした手ぬぐいで身体を清め、包帯を新しいものに巻き直したあとは、いっしょに温かいお茶を飲むのが吉継さまとわたしの通例である。
「きょうもよい天気で、星が綺麗にございますね」
「まったくよ」
 他愛のない会話を交わしながら星の瞬く空を見上げ、静かにお茶を啜る。ほう、と息を吐き出すときょう一日の疲れや緊張が溶けだしていくようだった。
 業病、だなんて喩えられる彼の病に特効薬はない。身の回りのお世話や、体調を気遣うこと、それからこうしてお話をすることくらいしか、わたしにできることはなかった。薬師としてもっている知識など、彼の前では何の役にも立たない。
「そういえば、このごろ三成さまの食欲があまり無いようだと家康さまにお聞きしました」
「ああ……アレは戦が近こうなるとそうなるのよ」
「戦、でございますか」
「朝鮮出兵、ぬしも知っておろ」
 吉継さまが湯呑みを傾けた。
 世界への第一歩。先ほど半兵衛さまから聴いたばかりだ。ただ、こんなに早く動き出すとは思いもよらなかった。
「いつ出陣なさるので?」
「さあ、な」
「他言禁止にございましたか」
「いや、近いと云えども、先のことよ。いまはまだ、日ノ本が慌ただしいゆえ、な。太閤はすぐにでも出兵させたいようだが」
「さようでございますか……」
 秀吉さまが天下をとってからの日々は、各地で小さな反乱が起きたりするものの、以前と比べれば驚くほど穏やかなものだった。戦があったことなど皆が忘れてしまったかのように。
 それでも、朝鮮出兵は着実に迫っているのだという。先ほど官兵衛さまがお見えになられていたのだって、きっとその件だろう。
 しかし日ノ本ではなく、海の向こうに戦火が広がるのだ。たかが一介の薬師に実感など沸くはずもなかった。
「しかし、そうよなあ。三成の体調はちと心配よ」
「家康さまもとても心配しておられました」
「飯も食わぬ、休みもせぬ、ではな」
「睡眠もとられないので?」
「寝るる暇があるなら太閤のため刃を磨く、そういうヤツよ」
 空になった湯呑みをことんと置いて、吉継さまは小さく吐息した。吉継さまも吉継さまで、心労が絶えないらしい。
「太閤の右腕である竹中殿の具合が優れぬゆえ、左腕は尚更なのであろうな」
「……そういうことでございましたか」
「竹中殿の知略は優れたものよ。しかし三成が振れるのは指揮ではなく刀ゆえなあ」
 秀吉さまのお役に立つために、食べもしなければ眠りもせず刀を振るう三成さま。忠義を具現化したようなお方である。が、しかし。
「それでは、秀吉さまのお役に立つ前に倒れてしまわれるのでは……」
 わたしの呟きに吉継さまも神妙げにうなずいたのだった。




されどかなわぬ現

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