出陣の朝。早くに目が醒めてしまったわたしは、薬箱や着替えなどのほとんどの準備を済ませたあと、散歩に出ていた。薄明かりにたちこめる朝霧が、深い緑のにおいを含んでいる。
「此度の戦、どうかお見守りください、お地蔵さま」
 森の入り口に佇む地蔵へ、小さな大福と野花を供えた。
 どうかどうか、みなが無事にこの大阪城へ帰ってこられますように。この出兵が豊臣軍に豊かな実りをもたらしますように。
 目を閉じ、手を合わせて願う。秀吉さまや半兵衛さまの見据える、強く気高い日ノ本の未来を描いて。

 城内へ戻る途中、見知った後ろ姿に出会った。しばらく戻ってくることのないこの大阪城を、やはりわたしと同じように散歩しているのかもしれない。そう思いながら、声をかける。
「家康さま、おはようございます」
 ぴくり。逞しい肩が跳ねた。彼は振り返りわたしを認めると、ああ、と二回ほど目を瞬いた。
「曲直瀬殿か、おのこの恰好もよく似合うな。一瞬、わからなかったよ」
 それから、おはよう、と付け加えられる。この姿になるのはひさしぶりだ、無理もない。
「半兵衛さまにも先日、小姓のようだ、と云われました」
「はは、たしかにな」
「家康さまは、お散歩にございますか?」
「うん、そんなところだ。早くに起きすぎてしまった」
「わたしもです」
 同じにございますね、と笑えば、家康さまも笑みを返してくださる。大きな戦を前に緊張なさっているのか、それはどこかぎこちなく見えた。
 ふと、三日前の宴が思い起こされる。
「あの、今朝のお身体の具合はいかがですか?」
「ん? このとおり元気だが、」
「ならば、ようございました。先日の宴にお見えにならなかったので、もしや体調でも崩されたのだろうかと心配に思っていたのです」
 怪訝そうにする家康さまへ正直にそう伝える。すぐに余計なお世話だったかもしれないと思ったが、やはり滅多にないこととなると、気にせずにはいられなかった。
「それは……いや、そう。そうなんだ」
 家康さまは極まり悪そうに頭を掻く。
「その、不注意で怪我をしてしまって、戦に響くといけないから、大事をとって休ませていただいた」
「左様で……それは災難にございました」
「いまはもう問題ないぞ」
 ほら、と大きな手を握ったり開いたりしてみせる。その手には古い傷痕もたくさんあって、どれが先の怪我なのかはわからない。ただ、笑いながら、だいじょうぶだ、と唱える家康さまはとても気丈だ。
「さてと、ワシはもう行こう。そろそろ忠勝も起こしてやらないと」
「はい、忠勝さまにもよろしくお伝えください」
「ああ。それじゃあ、またあとで」
 踵を返し、広い背中は歩いていく。気がつけば太陽はすっかり山裾から顔を出している頃で、薄曇りの空が白くひかっていた。

 法螺貝の音が鳴り響く。武装した兵たちが続々と城へ集まり始める。いよいよ、朝鮮へ向けて出立する刻が近づいていた。
 任された金創医たちの一帯とともにその時を待つ。すると、立ち並ぶ足軽兵の透き間を縫いながら、こちらへ向かってくる人影があった。
「薬師、半兵衛様がお呼びだ」
 目の前ででゆらりと立ち止まったのは三成さまだ。その後ろには吉継さまも控えている。
「半兵衛さまが……出陣の直前に、どうなさったのでしょう」
「知らん。行けばわかるだろう」
 ぞんざいな口調で促される。その、いつもは冷ややかに見える鋭い瞳が、きょうは微かに鏡のような強い光を宿していた。
 それはきっと、これから起こる戦への期待。秀吉さまのお役に立てることへの喜び。それらが身の内に灯す熱だ。
 わたしはそんな彼の目に、勇気づけられる。初めての戦への不安と恐ろしさで、凍りつきそうになる心を叱咤した。
「はい、すぐに参ります。ありがとうございます」
 駆け出そうとして、思い直す。訝しげにこちらを見遣るふたりへ、礼をした。
「三成さま、吉継さま、ご武運を」
 もしかしたら出陣前にことばを交わせるのはこれが最後かもしれないと、そう考えて。
「……貴様も豊臣軍のため存分に働け」
「ぬしもな。ほれ、はやに行きやれ」
 顔を上げて、今度こそ走り出す。半兵衛さまをあまり待たせては申し訳ない。

 半兵衛さまは、整列する皆を見下ろせる高櫓に居られた。わたしを振り返り、来たね、と柔らかに迎えてくださる。
「急がせてしまったかな」
 走ったせいで息が上がっていることに気づかれてしまったらしい。いえ、とかぶりを振っても意味のないことだった。
「急に呼び立てしてすまない。ひとつ、渡したいものがあってね」
「なんでございましょう?」
「こちらへ来たまえ」
 そう云われて近寄ると、半兵衛さまから差し出されたのは、小さな懐刀。それも、いかにも上質そうな、紫の漆塗りに金蒔絵の施された美しい拵えだ。
「こ、このような、勿体なき代物、とても受け取れません」
「そう云わずに。僕から、と云いたいところだけれど、秀吉が僕たちのことを祝福してあつらえてくれたものだよ」
「秀吉さまが……」
「僕の剣を打ったのと同じ刀工につくらせたものだ。持っていてくれるね」
 手を取られ、懐刀を握らされる。よく見ればその鮮やかな菫色は、半兵衛さまの腰に下げられた鞘の色と同じだ。そして何より、蒔絵で施されているのは、他でもない竹中家の掲げる家紋、九枚笹だった。
 同じ紋をもつことをわたしは赦されたのだと、そう思うとうれしくて、いまが夢のように感じられた。
「……大切にいたします」
 静謐な重みのあるそれを慎重に仕舞い込む。半兵衛さまはうなずいて、それから、わたしの背をそっと押した。
「さあ、もう出陣になる。行きたまえ」
「ありがとうございます。秀吉さまにも、やくが感謝を申し上げていたと、」
「ああ、伝えておくよ」
「そ、それと、半兵衛さま、」
「なんだい」
「お慕い申しております」
 思わず、泣き出しそうになる。苦しいほどに気持ちが溢れて、声に乗せずにはいられなかった。
「……まったく、女子として扱うわけにはいかないと云ったはずだよ」
 半兵衛さまは小さく溜め息をつくと、それから、仕方なさそうにやさしい笑みを見せてくれる。
「僕もだよ、やくくん」
 そのまっすぐな視線を受ければ、それだけでわたしの心臓は、ぎゅっと痛いくらいに切なくなるのだった。
「豊臣は必ず勝つ。君とまた、此処へ戻ってこられることを祈っているよ」
 強く自信の満ちた声だった。半兵衛さまのことばは不思議だ。彼がそう云ったなら、それはいますぐにも真実になるような気がした。
「やくも、そう信じております」
 そして、それこそがわたしの指標となるのだ。
 失礼いたしました、と深く頭を下げてから、わたしは背中を向けて駆け出す。賜った懐刀と、言の葉とともに、兵士たちのもとへと戻った。

 雲から透ける陽の眩しさに目を細め、高櫓を仰ぐ。秀吉さまがお見えになった。傍らに控える半兵衛さまが、静粛に、とざわめく者たちをたしなめる。
「ついに世界を手にする時が来た」
 大きな手が掲げられた。力強い声が響き渡る。
「豊臣軍全兵士に告ぐ、出陣せよ!」
 兵士たちから歓声が上がり、馬は高らかに嘶く。否応なしに期待で膨らむ胸を抱いて、豊臣軍は、未来へと進み出したのだ。
 広い世界のひとかけらを手に、またこの場所へ帰って来るのだと、そう信じて。




をくり夢見る菫草

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