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深夜2時過ぎ、ガチャリと玄関から鍵の音がしてわたしはベッドの中ぱちりと目を覚ます。ああ、彼が帰って来た。むくりと起き上がって小走りで玄関に向かう。途中洗面所の鏡の前に立って寝癖を少しだけ手櫛で手早く整えながら。廊下の向こうの玄関にはもう彼が居てちょうど靴を脱いでいる所だった。ユウ、と彼の名前を呼ぶ。





「おかえりなさい」



わたしが笑顔でそう言ったのにもかかわらずユウは下を向いたままああ、と適当な返事を返す。相変わらず無口で無愛想な彼はわたしの目すら見る事もなくするりと隣を通過して行った。瞬間、ふわりといつものあの甘いバニラが香ってああまた今日もあの人の所に行ってきたのだなあとわたしは思うのだ。

わたしは本当は全部知っている。彼が今どこから帰って来たとか誰と会っていたとか。けれどもわたしは特に何もあの人とユウに対して腹を立てる訳でもないし本人達を責め立てる訳でもない。第一わたしはあの人の顔は愚か声すら知らない。唯一の知っている事と言えばあの人はこの甘いバニラの香水を良く好んでいるらしい、という事だけ。それでいい。それでいいのだ。あの人の所から帰って来て不機嫌にバニラを漂わせる彼がたまらなく愛しくて愛しくて。愛しい。そしてこんな事をされて居ながらも彼を愛し続ける可哀想なわたし自身が何より純粋で美しいのだ。わたしは可哀想な女の子わたしはわたしは騙され続けていながら尚彼を愛す可哀想な可哀想な女の子なのよまるで悲劇のヒロインあああそうだわたしはわたしはわたしは悲劇のヒロインなのだ!ああこんな事思うなんてやっぱりわたしは可笑しいのかしら。可笑しい女なのかしら。ああねえ優介、笑ってやってよ。この変人な女を可笑しいと嘲笑ってちょうだいよ。殴ってくれたっていいのよ。ああ、ねえ、







「ユウ、」



「‥」



彼はやっぱりわたしの目を見てくれない。どうして?わたしに対する罪悪感?わたしのことを可哀想で馬鹿で愚かだとでも思っているのかしら。ああもうなんでもいいからわたしを笑ってくれればそれでいいの。





「ねえ、ユウ。」







キス、して?ユウの前に回りこんで甘えた声を出す。服の袖を少しだけ引っ張りながら顔を覗きこんだらユウのその目と目が合った。冷たい目。背筋が震えた。怖い。同時にじわじわと込み上げる興奮。ぞくぞく。その目でもっとわたしを見て欲しい。



優介はやっぱり一言も喋らないままわたしの横を通っていった。ジャケットを脱いでその辺に捨てるように置くと恐ろしいくらいひどく低い落ち着いた声で「疲れてるからもう寝るわ」とだけ呟くと背中を向けたまま寝室に消えた。キイとドアの閉まる音が響いて、わたしはそっとドアに寄り添う。





「おやすみなさい。」



彼からの返事は無い。ああなんて冷たい人。けれどそれがわたしを興奮させるのだ。あああユウユウユウわたしを笑ってよ笑ってよ見下して馬鹿にしてよもっともっともっと哀れで愚かで可哀想なわたしを笑ってよ!わたしにとってそれ以上のしあわせはないのだから。ああユウ、ユウ、だいすきよ。





素足にひやりとフローリングの冷たさが伝わる。イスの背から滑り落ちたユウの黒いジャケットが目に入ってわたしはゆっくりと手を伸ばす。そして掴んで拾い上げた瞬間それからバニラの香りが微かに零れて、わたしの鼻にいやらしくまとわりつくのだ。ああ、なんて、(どこまでもいじらしいのでしょう。)





she is Masochist.





(20071110)

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