わたし達が机に向かって、はや一時間半。
彼の天才的な頭の良さを考えれば今のわたしの頑張りはなかなかのものであると、思うのだ。
「ではその前提は何か?」
「二ルートAn五乗大なりゼロ、An-1六乗大なりゼロ」
「ああ。漸化式の両辺の二を底とする対数をとるとlog二底の二ルートAn五乗となる。すなわち…」
「log二底のAn-1六乗」
「そうだ。An大なりゼロ、An-1大なりゼロだから与式はlog二底の二ルートプラス五log二底のAnすなわち6log二底のAn-1となる。ゆえに?」
たくさんの数式をせわしなく書き走りながらやっと答えるわたし。
落ち着き払って、最小限の文字列をさらさら書き並べて、よどみなく回答の先を促すイタチ。
「二分の一プラス五log二底のAnすなわち六log二底のAn」
「…ちがうだろ」
じとっ。
少しの沈黙を置いて、イタチは目だけこっちに寄越してきた。
やだ、そんなに信じがたそうな目で見ないでよ。
「あ、An-1」
「そこでlog二底のAnをBnと置き換えると?」
わたしが正しく回答し直すと、イタチは何事もなかったように手を進めだす。
冷静沈着にして洒洒落落、泰然自若。鉄面の、鬼。
わたしはといえば、今の小さなミスで気持ちがくじけて一気に頭がこんがらがってしまった。
情けないけれども仕方ない、人間だもの。
第一、人間の集中力なんてものはもって三十分程度なのだ。
「…にぶんのいちぷらすごびーえぬいこーるろくびーえぬまいなすいち?」
計算したはいいけれど、わたしはこの式を導いて何をしたかったんだっけ。
「よって?」
「ええと、」
考えるそぶりをしてみた。でも、やっぱり何も解らなかった。
集中力は吹っ飛んでわたしの手は止まる。思考もどこかへ飛んでいく。
イタチはすごいなあ。ていうかかっこいい。やらせてみれば何でもできる。
あ、そんな彼に一時間以上休まず教えを頂いてるわたしもすごかったりして。なんちゃって。
体、近いなあ。そういえばイタチの左腕とわたしの右肩が頻繁に触れ合ってたりなんかして、しかも実はそれが今日に限ったことじゃなかったりして、あれ、わたしってばものすごい幸せ者じゃない?
頭の中はともかくとして、わたしの目だけは飽くまで計算式を見つめていたはずなのだけれど、少し視線をずらせば、わたしの返答を待っている彼の手があって。
指は長く男らしく、書く字は綺麗で読みやすくて、髪も綺麗で、どこをとってもわたしを失望させることがない。
じっと見つめているとどんな人でもボロを出すものなのに、このイタチの完璧さといったら!
慎ましやかな言動、穏やかな呼吸に触れていると、わたしは包まれるように落ち着いて満たされた気分になって、次の瞬間には幸福にうち震えるのだ。
―こうなったらもう勉強なんか手につくわけがない!
「……」
「……」
「…疲れたのか?」
シャーペンを握ったまま再始動しそうにないわたしの手を見かねたらしい。
響きのある、いい声。
「うん」
「これを終わらせられたら、休むか」
「、え」
顔を上げると、こういうところでは女の子にも甘い顔をしないはずの鬼の横顔に、少しゆるんだ目許が見えた。
思いがけず与えられようとしている休息への期待と、意外性を見せつけられたこととで、ちょっとどきどきする。
「ほんと?」
「…この程度でへこたれるものじゃない」
ふいっと逸らされた視線に付け足したような台詞がくすぐったい。
甘やかしたがらないけれど、結局のところ、イタチは優しい。
「うん」
「…続けよう。先は長い」
気を取り直して、と咳ばらいでもしそうな無表情でイタチは再び計算用紙に向かう。
わたしもそれに倣いつつ、横目で盗み見た彼の顔からはやっぱりどこかしら緊張感が抜けていて、わたしは思わず微笑んでしまうのだ。
「そうだね」
「ここでは特性方程式を使う。そうするとBnは」
「…待ってね。ここは五分の六だから…うーん」
ごめんねイタチ、やっぱりわたし勉強どころじゃない。
こーんなに素敵な男の人の隣にいて勉強に集中できるなんて、人間じゃないのよ!
「遅い…」
「この問題ややこしいよ、わけ解らなくなっちゃった」
「弱音を吐くんじゃない」
こんな手厳しいお言葉とは裏腹に、ほらイタチだって視線がひとところに定まっていない。
口数も多くなっている。
くすくす。
二人ともこんなんじゃ、回答を終えるのにもう一時間はかかるよ。
「わたし、じゅうぶん頑張ったと思うの」
「もうひと頑張りだ」
「もう何がなんだか解らないんだけど…」
困ってイタチを見上げれば、彼もまた似たような表情でわたしを見下ろしていて。
短く小さい溜め息をひとつ落としたと思うと、片腕でわたしの肩をぐいと抱き寄せ、
とっさに閉じてしまった瞼に、彼はそっと唇をあてた。
「!」
ふにゃりと柔らかい感触に背筋が震えた、
青天の霹靂。
「……」
「え、な、」
まさかの不意打ちで心臓が破裂しそうに痛い。
「…集中できないのはお互い様だ」
イタチはなんとも複雑そうな微苦笑を漏らしてすぐに手を離し、また目を逸らした。
その手が所在なげに机の上をさまよって、指が閉じられたり開かれたりするのに気付き、わたしはその動きに釘づけになる。
同じ落ち着かなさを、共有してくれている。
「頼むから、早く終わらせよう」
早く、なんて勿体ない。わたしはこの共有を長く感じていたかった。でも耳元で響く彼の声に耐えかねて、わたしは小さく頷くしかなかった。
胸に込み上げるものでいっぱいいっぱいになって手が震えだす。
どうもまだまだ時間がかかりそうだ。
お勉強の時間です。