あのひとが来て
長くて短い夢のような一日が始まった










仰臥するオレと同じ顔をした人形がオレを見下ろしている。悪夢的な光景に我ながら乾いた笑みを禁じえない。しかしこれは紛れもない現実だった。オレが笑っても人形は笑わない。しかしそれも今だけのことだ。きちんと表情を作れるようにしてある。

予定通りに浮遊感がやってくる。内腑に麻酔が効いてきたのだ。温覚と痛覚はもとより失われている四肢から、今、触覚が消えた。ただ指先を残して。視覚と指先の神経だけは麻痺させるわけにいかなかった。麻酔薬の調合には随分と時間をかけたものだ。今からこの指が人形を操らねばならないのだから。
視界の端に一筋の光がひらめいた。人形の手がメスをとったのだ。そうして定規に鉛筆を当てるような気軽なまっすぐさで、薄い刃をオレの胸にぴたりと突きつけた。
勿論オレが、そうさせた。

一体、静かなものだった。なんの高揚もありはしない。この心臓。平静だった。脈拍は悪足掻きもしなかった。麻酔のせいでは、ないはずだ。オレはすっかり心に決めていたのだから。

ご苦労さん、とオレは喉の奥でひとりごちる。オレの心臓。自分が単一の細胞のカタマリだった時からのべつ働き続けてきた偉大な臓器、あつく精緻な部品よ。実際、畏敬の念を抱かぬではなかった。久遠の過去に突如現れた生命、淘汰の名の下に磨かれたその磐石のシステム。長大な生命の歴史の幽玄とその体現。肋骨の中にてらてらと濡れて光る、重み。
その働きがとわのものであったなら、お前を切り捨てる必要もなかったのだが。


















あのひとの手に触れて
あのひとの頬に触れて
あのひとの目をのぞきこんで
あのひとの胸に手を置いた



















全てが失われるわけではない。少なくとも今は。オレにとっては無念なことだが、新しいシステムの動力に今の体の一部分をもっていく必要があるから。心臓のひとかけらと脳味噌と、最少限の神経系に経絡系、それらをつなぐ肉とその他諸々。脳に込められた記憶と一緒に余計な感傷もどうせついてくるだろうが、当面構わない。一握りの肉体と精神と、長い時を経てやがてもろとも腐り果てるだろう。そしてその消失は理知と理想へと向かう前進の、更なる一歩の証となろう。生命の歴史の幽玄と叡智の体現そのものに己れがなるのだ。きっと、そうだろう。なあ。まずはそのためのお前なんだ、笑うがいい。…傀儡は笑った。オレと同じ顔が、片手にメスを、もう片手にオレの心臓をもたげて。




















そのあとのことは覚えていない
外は雨で一本の木が濡れそぼって立っていた
あの木は私たちより長生きする
そう思ったら突然いま自分がどんなに幸せか分かった





















まっさらな腕にひどく重たいものを乗せて、オレはオレの死体を捨てに行った。

全く嫌になる重さだった。とっくに乾いているのになお湿ったような、柔らかい、ぐちゃぐちゃの、だるだるの臓器たち。しかしゴツゴツとしたものもある。傀儡化してあった部分と、まだしていなかった部分に残ったオレの骨だ。とらえどころのない体積をなんとか一抱えにして歩いた。腕から零れてぶらさがった臓物が風に吹かれて脇腹を叩く。
全く、嫌になった。まだこの体を使うのは慣れきっていないのに。足場も悪い。一歩踏み出すごとに砂に沈む。

砂丘と砂丘の狭間に降り立つと死体を埋めた。いや、オレは今こうして新しい体で生きているのだから死体というのは間違っている。ただ、のこったもの。残骸。遺骸か。なんだ、変わらないじゃないか。

「さよならだ」

無駄だったもの、余計だったもの、いらなかったもの。
これは足跡。すぐに消え去る。砂丘の奥底へ呑まれる。しかしこれは、記念碑だ。本当にほしかったものは手に入れた。これからも手に入れる。
ああ、さよなら、さよならだ。




































あのひとはいつかいなくなる
私も私の大切な友人たちもいつかいなくなる
でもあの木はいなくならない
木の下の石ころも土もいなくならない





























時折沙漠から貝殻が見つかることがある。沙漠はかつては海だったのだそうだ。この死の地平がかつては。
強い風が吹いた。昔から変わらない、死を運ぶ沙漠の風。この巨いなる乾きと清潔さの中におよそ人間などが生活の根を下ろせるものではない。しかし実際、ここは誰かの生国だった。ここに生きていたのだ、確かに。渇きにあっても濡れながら、濁りない沙原の中にも穢れながら。どうやって生きていたのだろう。遠い夢のように思いを馳せる。ここはかつては、海だった。海が枯れると、森になった。…

風が遠い声を運んでくる。祈りの声だ。この風の育んだ厳しく激しい戒律の。礫の原の大河床の果てより吹きわたり、彼岸と此岸を結わう声。

「やっと、見つけた」

それは貝殻ではなかった。すっくと抜きんでた、一本の白い骨。若いけれども古び、華奢だけれどもしっくりと固そうな、無性の骨。どこの骨だか分からない、人のものかも分からない。
けれども私は思う。これは、あのひとの骨だ。

置いていかれたのだと思っていた。目がさめるたび私は寂しかった。ずっと。この世の全ての夕焼けよりも赤い髪、大地の色した瞳を思い出していた。かつてあのひとの髪に触れたこと、あのひとの手に触れたこと、あのひとの目をのぞきこんだこと。思いを、馳せる。遠い夢のように。どこにも行けなくなったあのひとのために祈り続けてきたこと。

だけど違った。あなたは、ここにいた。あなたはあなたをここに置いていった。


私は彼の隣に腰かけた。呼吸を静めると風がこんどは雨の匂いを運んできた。見渡すと晶質の砂の風で舞い上がったのがさんざめく陽の光を散りばめて、雨雲の翳に綾と揺れていた。まるで古の遠浅の海の底みたいに。
























夜になって雨が上がり星が瞬き始めた
時間は永遠の娘 喜びは悲しみの息子
あのひとのかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた


















あのひとが来て
「自選 谷川俊太郎詩集」より感銘を受けて身勝手ながら引用いたしました
ありったけの敬意とともに
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