「それじゃ俺はこの辺で帰るかな。」
「先生、ちょっと待って」
「もう大丈夫だから。今度また話聞かせてよ。イタチもね。じゃ、よろしく」

こともなげに言って愛車のキーをくるくるっと回した。

情けない声を上げるわたし。
「お気をつけて」と冷静な家主。
鷹揚な背中を見送って、おずおずと見上げると彼は落ち着き払った仕草でうながした。

「どうぞ。お話は中で聞きますから」

ああこのしなやかに伸びていく腕は、やっぱり。







招き入れられた建物の中はなるほど仕事場兼住居といったつくりになっているらしかった。清潔そうな応対用のデスクに腰掛けると、事務所の奥の方に見えづらいが2階へ続く階段が見えた。生活感はあまり感じられない。

「書類、拝見します」
「すみません、こういうの本当は先方と直接やりとりするんでしょうけど…」
「いいんですよ。うちはどんな相談でも受け付けてますから」
「どんな相談でも?」
「そう。どんな相談でも」

うちはイタチと名乗る彼は受け取った書類に目を通しながらなんでもないふうに言った。口角を軽く上げながらそうやって話すのは大人みたいで、自分と同い年とはとうてい思えなかった。仕草は一貫して落ち着き払っていたが、書類を読むのが信じられないほど速い。

「とても辛い体験をされましたね」

書類の意図を読みとったらしいうちは氏が言う。それに対してあたりさわりなく受け答えができるくらいにはわたしは現実を受け入れることができていた。そんなわたしの心情を知ってか知らずかそれ以上何も言わない彼の距離の取りかたは心地よかった。
わたしの心は余裕を持ちはじめる。そして余計なことを考える。辛い体験をなさいましたねーーそれはわたしのほうが先に彼に掛けたかった言葉だ。

(覚えてないのかな…?)

彼は「はじめまして」と言ったのだ。
うちは氏が書類から顔を上げないのをいいことにじっと観察する。
静かに紙を繰る手はあの日固く握りしめられていた拳と本当に同じ手なのか。石像のように端正な顔立ちはまさしくあの日見たそれと全く同じと思うけれど、曇天を見上げていた苛烈な目の光はいまやすっかり消え失せて紙の上を穏やかに滑る。そんな光は初めからなかったとでもいうように。

きっとあれは見てはいけなかったのだ、と考える。この人はわたしのことなど忘れているか、もしくは無かったことにしたいのだ。人の悲しみの中身というものは簡単に見ようとしてはいけないのだ。いま彼がわたしに何も聞こうとしなかったように。
…でも…この人は誰なんだろう。どういう人生を歩んできたんだろう。なぜあのとき悲しそうにしていたのだろう。否それよりも…なぜ今は悲しい顔をしていないのだろう。

とんとん、と書類を揃える音でわたしはぼんやりした思考から立ち戻る。

「ひととおり分かりました。これから軽いヒアリングと書類の説明をしていこうと思います。分からないことは何でも聞いてください」

如才ない微笑とともに発されるゆっくりした声はわたしをとても安心させてくれた。完璧な微笑だった。自然で落ち着いた、思わず見惚れるような。じっとこちらを縫いとめるように見る眼の聡明なこと!

「よろしく…お願いします」

頼りになる人、なんてありがたいことだろうと安堵を噛み締めた。しかし思考の端っこのほうで、ふと思う。
ーー神様みたいだ。
優しいことも悲しいこともすべて「正しいこと」に変えてしまう、全てをお見通しの神様。
わたしは神様のことが、あまり好きではないのだけど。



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