「将来自分が自殺する可能性ってあると思う?」

しなびたフライドポテトを小さくかじりながら女は言った。気軽そうに眉の力を抜いていたが目は何ものかを射止めうる重さを持っていた。射止められてはならないから視線を下ろした。唇がやわらかくうごめいている。ほのかな水気の下に細かな皺がゆくたてに蠕動して、唇とは見れば見るほど奇妙な器官である。生きているのだ。嚥下。かの女は美しいかたちの唇を持った女だった。もの言わんと開く口腔は闇である。


我々はただ歩いていた。語りえなかったものの話をしよう、と女が言った。

「たとえば未来について、祈りと病について、そういうたぐいの話をさ」
「ああ。ところでお前には柏の木が見えるか」
「どこ?」
「あれは柏の木だ」
「あそこの木ね。それがどうかした?」
「いや。あれは柏の木だ」
「それはわかったけど、柏がどうしたの?」
「どうもしないさ。ただあれが柏の木だというだけだ。ただそれだけ。さあ、この話は終わりだ」
「ええ?」

不満げに見上げてきた目を見つめ返す。返せるものを他に知らない。
俺は今に限ってかの女の言葉づかいを忌避した。これ以上を語らせてはならぬという直感があった。語らいそのものを好まないわけではないが今の自分にとってはかの女の何か言いたそうな目こそがもっとも慈しむべきものだった。姑息さが我々の安息を守るならそれで良かった。やがてかの女は「ふうん」と納得したようなしないような鼻声をして視線をたがわせた。


かの女と俺とはよくこうしてあてもなく連れ立って街を歩いた。次の角を右、その次は左、またその次は右へ折れた。我々は様々な街でいつもそうやって歩いた。少し歩けばすぐに見慣れぬ景色になる。かの女はわずかの緊張を湛えた顔つきで辺りを見渡しながら確固とした足どりを変えずに歩いた。そして右左と数えながら果てしない行程のうちに道に迷うことを好んだ。俺も黙って隣に従った。
我々には行くあてが無かった。行くあてが無くとも歩き続けた。歩いている間は何も考える必要が無かった。何物でもなくなった世界は澄み渡るようだった。ただの二人だった。満たされていた。満たされた心はいつも小さい。小さくて、悲しい。
おそらく我々は見知らぬところを目指していた。どこか、広々として、それでいて包むように迎え入れてくれるような、終着点のようなもの。そういうところがあるかもしれないという漠然とした感覚があった。それは理想郷のくせに疾うに諦められているようなものだった。
そうした歩行の果てにも我々は必ず見知った街並みに出るのだ。例に漏れず今日もまた既知の場所に辿り着いたが、いま、状況は少しばかり奇異だった。

「…戻ってきちゃったね」

見覚えのある交差点の隅に見覚えのある木が立っているのを見とめてかの女は感嘆の声を漏らした。いつ知れず我々はもといた場所に戻ってきていた。先ほど指さした低木が変わらずそこにある。かの女は可笑しそうに息をつき伸びをした。

「疲れたよね。どこかに入ろう」

手近な飲食店に入り窓際の席をとった。向かい合わせに座りながらあの木がまだ見えることを視認する。

「イタチあのね。思ったんだけど、あの木は柏じゃないよ。あれはたぶん梔子」
「なんだ、そんなことか」
「なによ、また」
「あの木が柏であるかどうかなんて些末なことだ。あれが柏であろうと梔子であろうと、それは問題じゃない」

ふうん、と女はまた鼻を鳴らした。睫毛をするするとはためかせ、注文した飲物を一口飲んだ。少し考えてから、ああ、と言った。「庭前柏樹だっけ。一緒に聞いたね、そんな話」そしてしばらくは何も語らなかった。行く人の流れを視界に映しながら身体の休まるのを静かに待つ。


「わたしは小さいころ真剣に自殺を考えたことがあった。確か七歳のとき。理由は夏休みの宿題が終わらなかったから。笑っちゃうよね? でも真剣だった」

うすく笑うと闇の中からまず歯が覗く。白く小さい歯の先のさらに細かなまるい刃が僅かに覗く。その白さ、その精緻なまるさ、小ささで、かつてその歯が自分の膚と触れたことを思う。かの女のそれの揺るぎなく固いことを身をもって知っていてなお危うく思われる。それほど歯は端整であった。危うい歯に守られるようにしてその奥には舌先が覗く。このやわいものこそが核なのだ。唇よりも濡れてうごめくこの核がなければ我々は何も交わすことができない。

「手首を切れば死ねるという知識は幼いなりにちゃんとあったのね。台所の包丁を取り出して手首にあてる瞬間を想像したり、換気窓から入る光に細々と照らされながら死んでいる自分の姿を想像したり、それを発見した母の悲しむ様子や終わらない宿題をわたしに課した担任の先生が後悔にさいなまれるのを想像したりして、おののいては自分を慰めていたの。そんなことを考えてる間に早く宿題をやればいいのにね。子どものくせにいやらしいの」
「だが実行はしなかった」
「そう。実際は包丁を手にとることすらしなかったわけだけど」

あまねく女性がそうであるように、流れるような饒舌でかの女は語った。伸びやかな指でフライドポテトの端くれをもてあそぶのはまさしく痛いほどに女性の所作であった。

「だからというわけでもないでしょうけど、自殺してしまった人々とわたしとの間に何らのへだたりも感じないの。彼らの宿業が夏休みの宿題と同じレベルだといいたいわけではなくて、ただ死というものはわたしにとってさほど遠いものではないの。死は必ずしも悪ではなく時として救いですらあると。でも自分は将来、絶対に、自殺しないと思う。そういう何か確信めいたものがあるの、物心ついたときからずっと。」

そこまで言い終えると胸のすいたように目を見開いてかじりかけのポテトを口に放りこんだ。唇の端についた塩の結晶の一粒と脂を親指の腹で拭う。

「いま何考えてる?」

今日また自分から視線を外した。かの女の目を見返すことは苦しかった。
落とした視線の先で女の手が乾いた紙で指先の脂を丁寧に除去している。指先を暖めるように優しく、愛撫のように繰り返し、何度も。

「なんでもいいの、うちはイタチの言葉を聞きたい」
「俺は…」
「うん」
「お前を置いて死ねない」

刹那にかの女の呼吸の深く震えるのが分かった。
果たしてかの女は軽薄であった。こんな言葉を形にすることになんの意味があっただろう。本来安らぎを与えるはずの言葉が今はそうではないのだ。却ってかの女の怖れていたことを浮彫りにしただけだった。こうなることもかの女は予期していたはずだった。だからこそかの女は言葉を尽くして自死を否んだ。論点を少しずらしたのだ。だがずらしきることもできなかった。それは無意識だったろう。そもそも梔子を指す前から意思的ではなかった…それほど我々の事情は逼迫していた。それでも、かの女は語らずにおれなかったのだ。その切とした情動はいとしかった。とどめようもなかったのだ。語りえぬものをも共に語らおうとするその努力が。あがきながらまたこうして笑ってみせる女の性が。

「しおらしくしたってどうせ置き去りにするくせに。…わたしたちに次はあるのかな」

指先で頬に触れると目を伏せた。指に落ちかかる髪、包み添えられた手の柔らかさに脳髄がいたく痺れた。

「それでもわたしたちは歩くことができる。歩くということは、辿り着くということでしょう」
「…たとえそれを語りえなくても」

女は肯いた。伸びやかな指の先で窓の向こうを示した。指さすところに梔子の木を見た。さらにその先の、雑多な建造物の群れに紛れてそびえる城のようなものを見とめる間際に突如視界が激しく乱れた。忌々しい眼病。安っぽい悪趣味な城は人をいざなう蜃気楼のごとくかなたに揺らいだ。刺すような目の痛みに思わず伸ばした手をとって、美しいかたちの唇に白い歯が危うく覗いた。






くちなしのひとびと



 
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