「人間よ」

一声。

「知らうとするな、自分が、
 幸か不幸だか、
 問題は今そこにはない。」

萎びて煤けた色合いの書物を膝に開いて、瞠るでもなく眇めるでもなくあるがまま見開かれた瞼が上下するのを、黒く冷たい板張りの床に寝転がりながら、半ば夢見心地で眺める。何しろ今日は暑い。

「在、不在、
 これが焦眉の問題だ、」

平素の高らかに輝かしい声ではない、無感動ともとれる調子で詩を読み上げる。照りつける陽射しと相反して屋内は小暗いのが一層彼を聡く見せるようでそれが可笑しくもあり目新しくもあり何れ私はその所行を漫然と注視するほかなかった。おかしな話だ。広さだけが取り柄のような田舎の家屋、その空っぽの一室の片隅、小さな本棚に傾けられていた古びた詩集をデイダラが何気なく手にとるまで、私達は暑さに耐え兼ねて同じく床に身体を投げ出していたのに。

「灼きつくやうな緊急事。」

胡坐をかき丸めた背中を漆喰の壁に凭れてすっかり楽な様子でいながらやけに姿勢良く見える。質朴な発声は敬意を纏っていた。おかしな話だ、彼が自分以外の誰かに敬意を払うようになるなんて。

「生きて在る、死なずに在る、」

私達は本来何をするでもなかった。ここに西瓜があれば爽涼としただろう、風鈴があれば趣もあったろう、けれども生憎そんな気の利いたものは持ち合わせがなく又デイダラが何かを期待してここに居るとも思えなかったので退屈に甘んじていた。否退屈を退屈と思いもしないでじりじりと時の過ぎるに任せていた。彼は何も求めなかった。怠惰だった、そして静謐の断片があった。
「この詩好きなんだよな」ぽつりとそう言ったのは私に向けた言葉だったのだろうけれど彼はこちらを見もしなかったし、やや置いてそれを読み上げ始めたのも私に聞かせてやるつもりといった訳ではなさそうだった。彼は彼自身の為に詩を読んでいた。

「感謝し給へ、今日も一日、
 調和ある宇宙の一點、
 生きものとして在つたこと。」

未だ寝そべったままの私の傍らで彼は芸術に没頭する。私の知るデイダラは何を語っていても言葉の端々に拗ねたような色の滲む男だったけれども、おかしなことに、今その口で、物言わぬ哲学者の顔をして、彼は生への感謝を述べている。

「神にでもよい、自然にでもよい、
 君の信じ得るそのものに。」

宙に浮いては余韻も残さず消えていく。

「知らうとするな、
 知るにはまだ時が早い、」

止水。

「人間よ、
 墜落途上の隕石よ。」

こだわりなげにデイダラは本を閉じる。そうして床に寝転んで、すう、すう、二回ほど安らかな呼吸をし、おもむろにそれを投げた。それは私の腹の上に着地した。「あ、痛」けして厚い本ではなかったけれど背表紙が当たったせいだ。思いきり顔を顰めるとデイダラはにやりと笑った。

「この詩、好きなんだよ」

それさっきも聞いた、と言おうとしてやめた。デイダラはもう哲学者の顔をしていなかった。人並みに愚かそうな、開けっ広げな顔をしている、けれども詩を読む瞳の静けさが私の脳裏に焼きついて離れない。「人の本投げないでくれる?」「お前の腹の肉が役に立ってよかっただろ」言って、高らかに、愚かしくも輝かしい、大きな欠伸をひとつした。そうだこの男は昔から口だけは達者だった。

「詩集持ってたんだな。いい趣味してんじゃねェの、お前にしては珍しく」
「それはこっちの台詞だよ。詩なんて似合わない」
「オイラこう見えて、けっこう勉強するんだぜ、うん」

こんな軽口、何時もなら笑い飛ばすのに。

「もう、おさらばだ」

うんと伸びをしながら彼は言った。自分勝手だ。言いたいことを言いたいときに言う。何時だって唐突で、人の話など聞きもしない。与えられないと拗ねるくせに自分からは与えないし、求めもしない。デイダラは私に何も求めてはくれなかった。

「いつ発つの」
「明日」
「これあげるよ。餞別」
「いらね。そんな紙っきれ、火薬の足しにもなりゃしねェ」

差し出した詩集を取り上げてまたどこかに放り投げてしまった。固い表紙が床に当たる音と紙の折れる音がした、それに抗議すべく口を開こうとした、その前に彼は私の髪を乱暴に掻き回した。乱れた髪が視界を覆う。

「ちょっと。やめてよ」
「非力だなァ、お前」

負けじとやり返そうとして、やめた。触れようとした手が床に落ちた。デイダラは容易く私に触れてみせたのに私がどんなに手を伸ばしても彼には届かない気がした。寝転んだまま彼はくつくつと笑った。私も笑った。「好きです、よ」「そうかい」「そうだよ」再度伸びてくる腕を振り払う。
お願いだからそれ以上は触れないで、無残に乱れたこの髪が涙を隠してくれるのだから。




〆隕石/堀口大學「詩集 人間の歌」より畏れながら引用、参考にさせていただきました。

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