深い森の夢を見る。



森は溢れる生命や岩土をまぜこぜに孕んで濡れている。
湿った苔で覆われた岩に少年がくたりと凭れている。真っ白な肌は暗い森の中で切り取られたように映えた。時折思い出したように繰り返される瞬きだけが彼を生物たらしめている。この少年に見覚えがあった。

「こんな寂しいところにいたのね」
「お前には関係ない」

こちらに一瞥もくれない。表情のない声。

「ずっとここにいたの」
「さあ」
「どこから来たの」
「忘れた」
「どこかへ行こうとしていたの」
「…おれはただ」

少年は視線を僅かにさ迷わせた。

「自分の意思でここまできたんだが」

確かめるように呟いた少年と目が合った。星のような目だった。冷たく、不毛で、きれいな、ただそこにあるというだけの。やがて閉じられた。また動かなくなった。
柔らかな碧の苔が彼の白い指先を慰んでいる。




湿った苔で覆われた岩に少年はくたりと凭れている。頬を押しあてて、心音を探るかのように。囁く声を待つかのように。

「そうしていると何か聞こえる?」
「ほっといてくれ」
「それはずっと抱いているには冷たいでしょう」
「なぜそう思う」
「どう見たって冷たそうだわ」
「でも、本当は温かいかもしれない」

意思の力のない声だった。疲弊、というよりは何かが致命的に薄まっている感じだった。濡れた岩を力なく抱いたままこちらには一瞥もくれない。

「お前に何が分かる」

優しげな碧が白い肌を舐めるように這い延びてくる。






岩肌を覆う苔が少年の身体をも呑み込もうとしているのを見つけた。
矢も盾もたまらず駆け寄った。初めて触れた少年は芯から冷たかった。
小さな頭に絡みつく碧を夢中で払い落とすと彼は泣いていた。落ちた涙を吸うと苔は膨らみ纏わりつく。助けてくれ、と小さく声が聞こえた。

「負けないで、今助けるからね」

少年は私にならってめちゃくちゃに震える手で植物たちを剥ごうとした。けれどもそれは正しいことをしているはずなのに、まるで自らの羽根を引き千切る鳥のように痛々しく病んで見えた。ばらばらばら。ぶちぶちぶち。一緒に苔を落としながら、次第に私には何が何だか分からなくなってきた。なぜだか、ふと少年は苔を纏ったままのほうがいいのではないかという思いが過ぎった。私の手は遅鈍になった。やめてくれ、と今度は聞こえた。「だめ、負けてはいけない」叱咤しながら、手は動かなくなっていく。

「もういい、構わないでくれ」
「嫌だ。ひとりで勝手に諦めないでよ」

すると白い貌がにわかにこわばり、歪んだ。

「何も諦めたことなんかない。オレは。ただきちんと生きようとしたんだ。
 世界がこんなに悲しくては生きてなどゆけぬから」


ゆるゆると払われた手をもう一度伸ばすことができない。彼を助けたいのに、どうすれば助けられるか分からない。
それでも、と縋りたくて露わになった彼の肩に触れた。――愕然とした。それは人形の身体だった。いつから? きっとここへ迷い込んだときからずっと。あるいは少しずつ…
そのうちに彼は苔に抗うことをやめ、白い腕を岩に巻きつけた。「父さん、母さん。」小さく呟いて冷たい塊に頬を寄せた。深い絶望と救いとが同時に彼を押し潰すのを見た。私は一歩退いてしまった。彼を包もうとしていた苔は毟られてなお柔らかに私たちの傍にあった。






湿った苔で覆われた岩に少年はくたりと凭れている。あるいは守るかのように。縋るかのように。今までと少し違うのは、私達の間に距離が隔てていることだ。もとより近くはなかったのだ。遠く小さくなった、人形の少年。

ここは暗くて寒くて淋しいところだけど、ねえ、やっぱりその岩はあまりにも冷たすぎるでしょう。
去来する思いも言葉もあてどない。

まじりけのない白い肌はまぜこぜの森の中で切り取られたように鮮やかに映えた。少年は飽くまで森の異物だった。赤いこうべを擡げた。苛烈なまでに美しい形の眼を開いて、真っ白な腕についた苔の最後のひとかけらを払い落とした。






私が次に訪れたとき少年はそこにいなかった。





果てない砂漠の夢を見る。

「これでよかったんだ」

星のような目が瞬きをした。

「もう悲しんだりしない」

やがて氷の膜のように薄い瞼が下り、さ迷う瞳を覆い隠した。






お前もまた夢を見たのね。何度も、何度でも見たでしょう。


少年は帰っていったのだ。彼を濡らす森を抜け、絡みつく緑の根を踏み越えて。乾いた砂の大地を彩ってどこまでも晴れ渡った青空だけがある、彼の生国へ。そして二度と戻ってこない。

彼は不毛の砂漠の夢を見、私は彼を救う夢を見た。愚かなことよ、砂漠にだって草木は生えるさ。それが分からぬ彼ではなかったはずだ。それほど孤独に盲いていた。あまりに孤独すぎたから。
愚かなことよ、救おうだなんて傲慢だった。彼は不毛の砂漠を望めば望むほど森の豊饒に囚われていったのだ。たった一度助けを呼んだ、あの子がもう戻ってこないなんて思わなかった。どうかもう一度呼んでくれ、なんて今更。
ただ、寄り添えたらよかった。




今日も私は深い森の夢を見る。

噎せ返るような植物の匂い。雨垂れを纏い、柔い土を踏み、遠く煙霞に紛れてさらに奥、暗い緑の深淵に分け入ってゆく人の姿が見えた気がした。

「そっちじゃないよ、サソリ」

今更のように名前を呼んだところで届かぬことも知っている。彼は既に歩き出したのだ。今更何を言えよう。

「サソリ」

知りながら、またひとつ。


目がさめたら私は祈るのだ どこにも行けなくなったあの子のために


〆blue bird in yesterday

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