焦げた煙の匂いが香ばしく漂う祭の夜、彼を連れ出した。ただ立っているのも難しいような人込みに、はぐれないよう繋いだ手。力を込めて握ったらもっと強く握り返された。

人の波に揉まれながら周りに合わせてのろのろ進む。身動きもままならない。退屈なので彼の足を蹴ってみた。睨まれたから素知らぬ振りをした。蹴り返された。もう一度蹴ってみた。また、蹴り返された。無言の応酬ののち、ついに吹き出した。

「ばか、痛いよ」
「お前が言うな」

彼も笑っていた。




昔、犬を引き取ったことがあった。車に乗り込み、犬を荷台に乗せた。狭い籠の中から犬はずっと飼い主を見つめていた。飼い主に見送られ、その姿が遥か遠くなり、見えなくなっても、犬は見つめていた。寂しがっているのだろうと思い優しく名前を呼んでやると彼はちらりと私を見たが、それだけだった。明るかった日は落ちて夜になり、ようやく荷台から降ろしてやるまで、犬は私に見向きもせず、故郷のある方角を見つめ続けていた。そのときの言いようもない寂しさを覚えている。取り残されたのは犬でも元の飼い主でもなくこの私だというような気がしたのだ。





今日、相槌を打つ代わりにふと寄越されるようなイタチの何気ない一瞥は私を大いに満たした。優しい、優しい一瞥だ。泣きたいくらいに。いつもどこか遠くを見ている目は今日も変わらず前を向いているけれどいつもほど遠くないように見えた。

打てば響く、なんて当たり前を見失って苦しかった。ただしいつも勝手に見失う。本当は必ず響き返してくれているのを聴きとる覚悟がないだけで。私を悲しませまいと真っすぐに覗きこんでくる大きな黒目は往々にして私をより深い悲しみに追いやった。その目をどれほど愛おしく見つめ返したとして、彼に何かを響かせられるだろうか。彼の澄んだ瞳の向こうにはいつだって彼の志があったけれど、彼がいま志を忘れ悲しみを忘れ、昔みたいに可笑しそうにしていることが嬉しい。私が彼の傍らにいるためにはそんな志など要らないのだから。

「行きたいところはあるのか」
「ううん。どこへでも」

握った手はまだ離れない。




我が家にやってきたこの寂しい犬を大事にしようと思った。前の飼い主よりもずっと深く愛してやろうと思った。肩身狭そうにしていた彼も時間が経てば打ち解けた。私たちはよく遊んだ。犬はすっかり安らいでいるように見えた。ソファに寝そべり窓の外を眺める犬の姿を今も覚えている。





人込みの中で時折瞬きをやめるのは職業柄ゆえか。彼はまた耳を澄ませるようにふいに呼吸をひそめたりした。ほんの少しの緊張も解いてやりたくて握った手に力をこめれば、握り返してくれた。そうして安らぐのは結局私なのだった。熱を持ち始めた手のひらの疲れもなつかしく、愛しい。

張り詰めたような目線がある一点を見つめていることに気がつく。「何を見ているの?」視線の先。すぐに分かった。簡単だった。そこには人々の足元をくぐり抜けていく幼い兄弟の姿があった。はしゃぐ弟の後を兄が追う。困ったように笑いながら駆けていって、すぐ見えなくなった。それだけだった。もう見えない。子どもたちはどこかへ行ってしまった。
「何でもないよ」そうイタチは答えてから、私を見た。覗きこんでくる大きな黒目。思わず視線を外した。予覚があったからだ。この人はいつも優しく嘯くのだ。絶望しそうになる。こんなにも響き返してくれているのに。
ねえ、今、思い出さなくていいこと思い出したでしょう。

気がつくと彼の手を離していた。そのまま一歩踏み出すとあっけなく人込みが私たちを隔てた。
少し落ち着かなければ、と思った。呼吸ひとつの間だけ人波に揺られたら、何事もなかったみたいに彼のもとへ戻り無邪気に笑ってみせようと。
だが止まらなかった。意に反して足早になる。自分でも不思議なほど軽やかに人込みを渡っていく。「どこに行く」やがて駆け出す。あの兄弟たちのように。




犬は静かに逝った。いつものようにソファに寝そべり、窓際に頭を乗せて。
彼のよく眺めていた空が彼の故郷のある方角だと気付いたのはずっと後になってからだった。

私は長いこと忘れていた、取り残されたようなあの感覚を味わった。あの犬が死ぬ間際に見たのは遠い故郷の空だったのだ。どうして。彼の心は既にこちらにあるものと思っていたのに。否、ただの偶然だったかもしれない。すっかり匂いの馴染んだソファの上で犬が何を思ったかなんて私には知る由もなかった。







屋台と屋台の隙間を抜けて出れば一転して薄暗い。屋台を隔てて向こうは喧噪、参道の脇の並木を縫う。小石に木の根に土くれに何度もつまづく。「止まれ」いとも容易く掴まれる腕を振りきるだけの気概もない。「もう走るな、怪我をしているだろ」目線を合わせようとしてくれるのがわかるのに正視できない。ゆるゆると見下ろした足は土に汚れて、確かに血を滲ませていた。乱れた呼吸を整えて自嘲。


屋台裏の人々からペットボトルの水とタオルを分けてもらうと、イタチは参道の並木の下に私を座らせて、擦りむいた足首をひんやりと湿ったタオルで拭った。優しい手つきがくすぐったく、静けさがいたたまれない。私は何をしたかったんだろう、自分でも見失うのに、彼にはわかっているのではないかと思う。私の不可解な逃走について彼は何も尋ねなかった。

「…困らせて、ごめんなさい」
「いいんだ」
「イタチは優しい」

正視。かちりと目が合う。臆する私、しばし瞬いて、臆さず覗きこむのは大きな黒目。夜闇にもまぎれずどこまでも深い。

「だからね、私は幸せ」

「これくらいのことで幸せになってくれるのなら、俺はお前にいくらでも優しくしてやりたいよ」

優しい瞳に纏わりつくような諦観は例によって私を突き落とした。彼は微笑みさえした。遠いところを見ている目。私ではないものを思い出しているくせに私の強がりを見抜いて何よりも残酷。
いっそ罵倒してくれたら!
そんなに悲しく微笑むくらいなら私と生きてみせてよ。彼の言葉は、優しさのために引き裂かれていた。いつかは突き放される私の運命を知り抜いていたから。

なんのことはない、あの寂しい犬と同じだ。もといた場所にかえろうとしている。私は取り残されないように彼らを愛して苦し紛れ。引き裂かれる彼を思うと、私は駄目だった。彼のために私が引き裂かれたかった。
(それでも、あなたの隣にいたかった。)
人は正しければ正しいほど引き裂かれる生き物です。ならば正しさは、優しさは、本当に幸福の姿ですか。そんなことを認めるわけにはいかない。だってもう失いたくない。突き落とされても気づかないふりをして何度でも這い上がりあてどない悪足掻きをしよう。それでもどうせ最後は受け入れるしかないのだろうから。
本当は私も、貴方が幸せになるためならなんだってしてあげたいと思っているんだ。だから手を離さずにいられなかった。私なんかに縛られてほしくなくて。

「…ありがとう」

傷口をきれいに拭い終えるとどちらともなく立ち上がる。手を、繋ぐ。どちらともなく歩き出す。

「うちに帰ろう」

考えるまい、今日はただ寄り添おう。彼には帰り道などないのだ。





とりのこされて


 
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