すう、と腕が伸びてきた。あまりにしなやかな動きだったのでどきりとする。黒い目がわたしを見据えた。湖のようだと思った。黒い目は凪いだ。否わたしの心が凪いだのだ。わたしの手は意思そのもののように紙コップを差し出し、彼は躊躇わずそれを口に運んだ。
目を閉じ、上向いた白い首に喉仏が浮き出た。所作が美しかった。二度に分けて、静かに飲み干した。

沈黙が流れた。男は何も言わない。空になった紙コップを持ち、もうこちらを見なかった。わたしは少しもたついた。コーヒーを勧めたのは自分の無償の善意ゆえだだけれど、こう無言ではわたしの居場所が無いのだった。彼は少しは落ち着いたようだから(否、もともと取り乱してはいなかったかもしれない)ここはもう立ち去るべきかと思っても、わたしは彼の悲しい、黒い瞳をいま一度見たくて動けなかった。総てを飲み込む瞳だと思った。彼が果たして泣いていても、そうでなくても、あの瞳があるからにはさして違いは無いかもしれないとも思った。

『65番の方、診察室までお願いします』

アナウンスが流れた。わたしの番が回ってきたのだ。もう行かないと。
元気出して、と最後に声をかけようと思った。

「……苦い」
「え?」

だしぬけに彼はひとこと発した。苦いとは、ああ、コーヒーのことだろうか。彼は続ける。

「苦いくせに薄い。匂いも、泥水のほうが、まだましだ」

がん、と殴られたような気がした。わたしの差し出したコーヒーがいま彼の言葉によって淡々とけなされている。これは一体どうしたことだろう、いやどうしたもこうしたも、とにかく彼は気に入らないと言っているのだ。
大いに戸惑った。そうか確かに彼にとっては迷惑な話だったかもしれない。自分がつらいときあるいは混乱しているときに見も知らぬ女に話しかけられ、美味くもないものを差し出され。いや、彼がつらそうにしていたということすらわたしの勝手な思い込みでもあるのだった。

「あの……」

謝ろう。ああでも彼と目を合わせられない。
わたしが二の句を継げずにいるあいだに彼はいかにもやすやすと紙コップをつまみ上げ、ダストシュートに捨てた。彼の手から真下へと落下してろくに音も立てないのを無感動に見届けて、彼はさっさと歩き出した。
行ってしまう。
動けない、うまく言葉がでてこない。これは呆れか、羞恥か、怒りか、許容か、混乱し、呆然、どうしようもなくてあらぬほうを見た。

とん、と背中を叩かれた。

「次に会ったらもっといいコーヒーを奢ってやる」

彼が目の前を通りすぎていく。



理解するのに少し時間がかかった。
彼の言葉を反芻して、がばと振り仰いだときにはもう後ろ姿だった。
姿勢よく颯爽と去っていく、その前にほんの少しだけ横顔が見えた。こっち見たのかな。笑いかけてくれていたような気がする。そう思いたいだけなのかもしれないけれど。もっとよく見たかった。その微笑みはさぞや、…

背中に触れた手のわずかな感触、彼の言葉を噛み締めた。静かでよく通る声をしていた。悲しそうだった人。やがては微笑ってくれた人。思い返すだけで胸にじわりと温かい感覚が広がる。
名前も知らない人。次に会うことなんてあるわけがないというのに。
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