「このままでいいの。」

努めていつもどおりの口調と表情で、長いこと胸の奥にしまっていた言葉を、やっと言ってしまう。
彼の命に少しかかわりたいというだけの、単純なこと。でも難しい。

「たとえば遠くへ行ったりして」

枝についた清潔な冬葉のような、すっかり乾いて落ち着いた様子で、ゆっくりとイタチがまばたくのを確かめて、わたしは言葉を選んでゆく。

「誰もわたしたちを知らないような辺鄙なところ。たとえば小さな村で、おじいちゃんやおばあちゃんの畑仕事を手伝って」

優しい、深い声とか、頭や背中を撫でるときの柔らかい手つきとか、神様が彼に与えたすばらしいものたちの一切を、隠れたままにしておくのは良くないことだ。

「若いもんはいいねぇなんて、笑われながら暮らすの。なかなかいいんじゃない。どう思う?
ばちなんか当たらないよ、これくらい、欲しがっても。」

「悪くないな。」

目を伏せて、ちょっとだけイタチは微笑んだ。
その力の無さが不安。昔はもっとよく笑う人だった。
会話なんかやめにして今すぐ触れたいと、わたしの指も唇も常にうずうずしている。

「…おれには荷が勝ちすぎるくらい。」
「ううん、全然足りない。」

勧め、ではない。わたしはイタチを唆している。ごめんなさい。解っている、これはわたしのためでしかない。
だけどどうしても幸せになってほしくて。人はひとりでは生きられないはずでしょ。そのはずなのよ。

「気持ちは嬉しいけど、おれはこれでいいよ。今のままで」
「今のままでもいいけど、それ以上でもいいんじゃない。」


「わたしはくやしいから」

これだけの犠牲を払ったひとが、これからも犠牲を払い続けるのが。

このひとの一生は。
わたしの思いは。

「もうやめてもいいんじゃないのかって思うよ。」
「……。」
「あの子のことも、もういいんじゃない。」
「…すまない。」
「もっとわがまま言いっこしよう? あなたにはその権利があるから。」

彼が謝る理由も、許しを請わない理由も、解るんだけれど。
わたしははやり、イタチは落ち着いていた。

「ね。」

あなたの時間をわたしにください。


「…それなら」

目を上げて、ちょっとだけイタチは微笑んだ。

「ひとつだけ。」
「聞くよ。」

彼が黒い瞳をわたしから離さずに、わたしの手の上に手を重ねたので、わたしは息を呑んだ。

「おれを不幸な男にしないで。」

微笑を消してなお穏やかに細い目は、わたしを沈黙させるに充分だった。一世一代のわがままよ、彼は肝腎なところでえげつない。

−なにがさて、わたしは幸せだったのだ。

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