鬱蒼と繁った森を抜けたところの小高く開けた丘に、わたしの家が立っている。

丘には大きな桜の木が一本あって、夏には木陰を作ってくれた。
秋を越え冬を耐え、いまは落ちた花びらが、なお豪勢に丘を飾っている。

寂しく佇むわたしの家の窓からは、年中その大木が見える。

だから、木陰に降り立った人影があればわたしはすぐに気付くのだ。

「あれは…」

読んでいた本から顔を上げたら、
窓の向こうで、黒髪、黒装束の少年が桜の木の下にぽつねんと立っていた。
背中に小さく赤い家紋が見えた。
彼は上を見上げていた。
花を眺めているのか、絹雲の流れを追っているのか。


わたしは隣にお邪魔しようと外へ出た。
風は暖かい。
わたしが玄関で準備している間にか、彼は木の根元へ腰を下ろしていた。

あぐらを崩した格好なのに粗野な雰囲気がまるでない。
くつろいだように背中を木にもたれて、静かな眼差しで遠くを見据える姿がまぶしかった。

イタチはのろのろ首を動かして傍らに立ったわたしを見上げてきた。

「隣、いい?」

わたしが読みかけの本をちらつかせると、イタチは何事もなかったかのように空を眺めた。

その沈黙を肯定と受け取って(そもそもここはわたしの庭なのだから)、やわらかい花びらの上に座った。

イタチのほうから話しかけてくることはなかった。彼はずっと、あらぬほうを見ていた。

それならどうしてわざわざわたしのところまで来たのだろうと思った。
きっと誰とも話したくないからここに来たのだろうと結論づけた。


わたしは落ち着かなくて、息をするのがいちいち不自然に感じた。
ずっと本を眺めていた。


しばらく努力を試みたが読み進めることもできないまま、諦めて本を閉じた。
深く息をついて頭を木の幹に預ける。

不意に訪れた静寂。
耳のそばを風が吹き抜ける音に混じって、かすかな息遣いが聞こえた。

それは規則正しかった。
わたしは体をそうっと起こして隣をうかがい、思わず震えた。

イタチは眠っていた。

ひそかな寝息は、わたしがあと少しでも身動きしたら消えてしまいそうだ。
胸元が小さく控えめに上下している。

風にこれ以上吹いてほしくなかった。
桜の花びらひとつ落ちただけで、眠りから覚めてしまうかもしれない。
穏やかで儚い寝顔。



わたしは呼吸を忘れていた。
しあわせで、胸がいっぱいで苦しくて、知らないうちに涙が頬を伝っていた。
いまなら死んでもいいと思った。
出来ることならいまこの瞬間に死にたいと思った。

わたしは自分の両手を見下ろした。


誰にも、彼の安らぎを壊させはしない。
髪ひとすじさえも触れることは許さない。



わたしの指の隙間をただようようにして、小さな蜉蝣がすり抜けていった。






春を知らず
かの心の優なる故に
 
 
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