閉じた目の上なら憧憬のキス。 




「春草さん」

名前を呼ぶ声は微かに甘かった。芽衣の唇が優しく、春草の名を刻む。その度に春草はなんとなく、彼女が自分に向ける感情の名前を否が応にも知ってしまうのだ。

「俺は、君をきっと好きにならないよ」

名前を呼ばれる度、甘く優しい声が鼓膜を揺さぶる度、胸の奥底にある自分の弱い場所が、簡単に突き動かされていく。その感覚は決して心地好いとは言えなかった。苦しくて、切なくて、泣きたくなる。
だからこそ、早く彼女を突き放さなければならなかった。それは春草自身のためでもあり、また、芽衣のためでもあった。

春草の言葉に、芽衣は彼の瞳をじっと覗き込む。思わず目を背けたくなるような、真っ直ぐで美しい瞳だった。

「春草さん」

再び、芽衣の唇が春草の名を刻む。やめろ、と春草は心の中で叫んだ。苦しい。苦しくて堪らない。水底に沈められたように、身動きのとれない苦しさだった。

芽衣が一歩踏み出して春草に近付く。春草の肩が僅かに跳ねて、一歩後ずさる。
芽衣はそんな春草に構わずまた一歩、二歩と突き進んでそれから春草を細い両腕で抱き締めた。
ふわり、と彼女のどこか甘い香りが春草の鼻腔を擽る。

「春草さん、泣かないでください」

背中に回された手に力がこもる。春草は、自分も小さな背中に手を回すべきか逡巡したが、やっぱりやめた。

「何言ってるの。泣いてないよ」
「泣いてますよ」
「泣いてないって」
「わかります。春草さん、泣いてます」

春草はもう一度違うと言おうと思ったが、結局、黙って芽衣の抱擁を受けることにした。彼女が言うのならば、自分は泣いていたのかもしれないと思ったからだ。

温かかった。彼女を抱き締めたかった。だけど、それはできない。届かない。心は、芽衣を求めていた。たぶん、きっと自分じゃ彼女を幸せにできない。幸せにできないのなら、最初から好きにならなければいい。

「春草さん、」

芽衣の声が、鼓膜を、心を揺さぶる。この小さな身体に、自分の身をすべて委ねてしまいたい、そんな衝動に刈られる。
でも、眩しくて堪らない。真っ直ぐに春草を思う芽衣の気持ちも、揺らぎのないその眼差しも、すべてが春草には眩しく思えた。

春草は芽衣の身体を離して、その柔らかな曲線を描く頬をするりと撫でる。
瞼の辺りを指でなぞると芽衣はくすぐったそうに目を閉じた。春草はそのまま、閉じた瞼の上にそっと唇を落とす。
その後すぐに目を開いた彼女が少し驚いたように春草の顔を見つめた。

「春草、さ、」
「何も言わないで。何も、言わなくていいから、」

胸が締め付けられるような苦しさだった。いたい。頬を伝う温かな雫を感じながら、春草は彼女の言ったことは本当だったな、と頭の片隅で思った。



(閉じた目の上なら憧憬のキス)


 
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