※微死ネタ
人の一生は、そう長くはない。
「……芽衣…………」
病で床に伏せるようになってから、今はもういない少女の名前をよく呟くようになった。
ああ、僕はもう随分と歳をとってしまったのだ。
あの夢みたいに美しく、輝いていた彼女とのあの日々は、もう遠い遠い昔の話なのだ。
「……けほっ、」
乾いた咳を繰り返す度に、身体中が軋むように痛む。
歳をとって皺が増えた。
病で身体の筋肉は削げ落ちた。
たぶん、僕はもうすぐ死ぬのだろう。
長生きはした方だと思う。
多くのものと出逢って、そして別れることを繰り返してきた。
守るべき大切な妻と子供達にも恵まれた。
僕は、十分に生きてきた。
だけど、それでも最期に一つだけ思い残したことは、
『鴎外さん』
蜂蜜色の綺麗な瞳を持った、あの少女。
少し照れたようなはにかんだ笑みを浮かべる彼女は今、どうしているのだろうか。
「……芽衣、」
僕が愛した少女。
何度も何度も、彼女のことを物語として残そうと万年筆を持った。
だけど、彼女と過ごした幸せなあの時間を誰にも踏みいられたくなくて、もしも物語として形に残してしまったのならあのいとおしい日々も全て嘘臭く、ただの幻想になってしまうような気がして。
「……芽衣、おまえは、幸せに生きているかい?」
どうか、彼女が幸せであれば良いと思う。
その隣にいるのが、見知らぬ男だとしても彼女が幸せならばそれで良い。
「……愛してるよ、芽衣」
長くはない一生の、ほんの一瞬。
彼女と出逢い、彼女と過ごして、彼女を愛した。
僕には、もうそれだけで十分だ。
それだけで、いい。
……ああ、少し眠い。
僕は乾いた咳を一つして、それからゆっくりと瞼を下ろした。
(最期に、君の声が聞こえた気がした)