神威君、
 囁くように掠れた声で俺のことを呼んで俺の手を包むのは、そういう過程を踏むのは、いつだって彼女だけだった。俺たちの生まれた星は大抵じめじめと薄暗い、雨ばかり降る所だった。居るのは破落戸か死にかけか死人ばかり。皆血に餓えていた、筈だった。

 じめじめと薄暗い町。そうして、それ以上にじめじめと情けない顔をしているのが彼女だった。誰よりも透けるように白い肌は寧ろ青白く、体躯もひょろひょろと頼り無い。夜兎の血を色濃く受け継いでいるはずのその瞳は血を見るのを何よりも恐れた。だから、今になって思うと、多分彼女は俺のことを心底恐れていたのだ。

 彼女はいつだって俺の手を強く握った。決して殺されることがないように。


「神威君あのね、昨日、神楽ちゃんとけんけんぱして遊んだの」

 へらりと笑う彼女は楽しそうにそう言った。けれど眉を下げて笑うその顔はどちらかと言うと泣いているように見える。楽しい話なんだろうけど、だから俺には彼女の話はいつも悲しんでいるようだと思えた。それから、弾む声とちぐはぐで滑稽でもあるとも。「それでね、」俺の返事が無いことは始めから分かっていたようでそのまま続ける。

「その時、地面が濡れてて転んでしまったのだけど、神楽ちゃんが絆創膏をくれたのよ」

 よろよろと片足立になりながら反対側の膝小僧を見せる。傷なんてとっくに塞がっているはずなのに。申し訳程度にそこへ目を遣れば、不格好に皺の付いた、(それは娘が言いそうな言葉を借りれば大層可愛らしい、)兎柄の絆創膏が慰めとばかりに貼り付けられていた。

「…皺だらけじゃあ絆創膏の意味が無いよ」
「だけど可愛いでしょう」

 ふふと声を漏らして、神楽ちゃんがくれたのよともう一度囁いた。それはもしかすると嫌味や皮肉だったのかもしれない。ついさっき妹に別れを告げた兄は、人で無しと詰られているような気分になった。いや、君はずっと此所に居たのだから何も聞いちゃあいないだろう。だから責められる謂れも無い筈だ。

「神威君はお天道様の見られる町へは行かれるの、」

 ふつりと今までの話の糸を切って、彼女が突然そう訊ねてくる。様子を探っても相変わらず手は握られたまま、情けない表情のまま。けれどその目は少しだけ潤んでいて、少しだけ歓喜の色を称えていた。

「さあね。俺は強い奴と戦えれば、それでいいよ」

「そうなの」予め答えは予測していたのだろう、真面目に返らない言葉にさして落胆してはいないようだった。(寂しそうに見えたのは多分俺の思い込みだ。)

「…そんなに太陽が見たいんだ」
「あら、みんな太陽が恋しいんじゃないの」
「まさか。俺は君みたいに女々しくないよ」
「可笑しなことを言うのね。女なのだから女々しくて当然でしょうに」
「……」
「…せめて死ぬまでに一度くらい、何にも邪魔されずに拝みたいくらいには思っているの」

「君が日の光を浴びたら一瞬で死んでしまうんだろうね」
一等白い肌は、きっと、耐えきれずに灰になる。作った笑みを崩さず吐こうとした言葉は、しかし宙へと育まれる事は無かった。そう言ってふふふと笑う彼女はまるで別の人のようだと思ったので、思わず、そう、思わず呼吸を止めてしまった。そいつは女の顔をしていた。情けないと思っていた表情は一瞬間だけ憂いと艷を含んだものに一変していた。
 息が詰まる。まるで方法を忘れたかのように。

 すべては刹那の出来事だった。俺は取り戻した酸素を肺に送り込む。けれど未だ目眩のする頭。ああ、苛苛する。何に対してだか判らない舌打ちをして、気がついた時には俺の手を包んでいた両手を思い切り振りほどいていた。それから何が起きたのか分からないように目を瞬かせるその頬を張る。小気味の良い音が鳴れば、透明な白に赤が差した。唇からは血が流れ、真っ直ぐ顎まで伝ったそれは音もなく地面に落ちた。素直に、綺麗だと思う。

 痛みに歪んだ顔を見て、ああずっと、俺はこうしてやりたかったのだと思うことにしたのだ。

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