「おーいおーい!!!ねぇーえ!!」
まだ夜も深まる前。
黒い布にぶすぶすと穴を開けたように空に星が広がる23時。
船首で行われている宴もまだ序盤だっていうのに、船尾ではまたあいつの悪癖が始まる。
器用に船の縁に立つシルエットは海に向かって声の限り叫んでいた。危ないから止めろと言ったのにいつも聞かない。
「おーい!…っお――い!」
「オイ、」
「誰か――!!」
「……」
「おいおいおーーい!!……」
…すうっ
「っおいやめねぇか」
「ふぅー。あ、キャプテン。」
一際大きく息を吸うので少し焦って声をかけると気づいたようで彼女は振り向いた。
宴はお開きですか?と言って訊ねる顔は笑ってはいたが、目元は赤く瞳には薄い膜が張っていた。
降りろと言うと大人しく縁に座った。ふらふらと足を動かしている。
「まさか、まだ飲んでるだろう」
「そっか。じゃキャプテン戻っていいよ」
「…いい加減にやめろ」
「…何が?」
「分かるだろ。」
「言ってくれなきゃ分からない」
「こんな不毛なことやめろ。」「…不毛かなあ」
「不毛だろ。」
あんまりにもフラフラとしていて船から落ちそうなのでローも縁まで近づくと、少し驚いたように彼女肩のラインは強ばった。
いつもそうだ
こいつは酔うと必ず
海に向かって叫びだす。
滅多なことがない限り感情を表に出さないこいつは多分こうやって叫ぶことで自分の中のなにかと折り合いをつけているんだろう。
かといってスッキリした様子もなく、叫び終わるといつも目を腫らして船内に戻ってくる。
今夜もそうだとローは思った
満足なのか、それともローがいるから止めたのか、はたまた不毛と言われて機嫌が悪いのか、それきり黙ってしまった彼女との間にはなんとも形容し難い沈黙。
まるで異国の音楽がどこか遠いところで鳴っているように、波が寄せる音はくぐもって聞こえた。
「…何か待っている気がするの」
一分なのか、もしくはもっと長かったのか沈黙を先に破ったのは彼女だった。
「何かってなんだ」
「何か大きいもの」
「抽象的だな」
「感覚なんてそんなもんでしょ」
「で、お前はいつも呼んでいるわけか」
そんなに泣きながら。という言葉は音にならずに喉の奥に沈んだ。
「だって呼ばれてる気がする。ずっとそんな気がしてる。」
「宴に呼ばれてるのに、お前は目に見えないものを取る。」
「はは、いやキャプテン達と飲む酒は嫌いじゃないんだけど」「…嫌いじゃねェっていうのは好きでもねェってことだろ。」
「意地悪言うね…」
苦虫を百匹同時に噛み潰したのかっていうくらいの苦笑を湛えて彼女は言う。
「…でもこればっかりはどうしようもない」
「…どうしようもなくねェ。一人で手酌で飲んで何が楽しいんだ」
「一匹狼みたいでかっこいいかと。ほら孤独な女?みたいな?大人っぽいよね。」
「お前に孤独なんて似合わない」
「!」
半ばやけだった
船の縁に置かれていた小さな白い手を思わず取ってしまった。
彼女の体は容易に傾き、バランスを崩した。その綿のような軽さに目眩がする。
勢いづいて、とんっと足を下ろした彼女は掴まれた自分の手をちらと見た。それからゆっくりとローを見上げると困ったように笑う。
「離してキャプテン」
「……」
「わあ、こわいかお」
眉間にしわが寄ってるよ、とか何とかいいながらそろりと一歩分ローから離れる。
そのせいでローの眉間には余計しわが寄った。
気に入らない。
非常に気に入らない。
何かが呼んでいるってなんだ
待っているってなんなんだ
海が返事でもしたらお前は何処に消える気だ。
俺もお前を
待ってるっていうのに―
そう思うともう駄目だった
「お前はハートのクルーだろ」
ひたひたと濁った感情が脳内を満たして、溜めてきた言葉達はここぞとばかりに溢れた。
「そうだよ」
「だったら何か不満があるのか」
「何もないって…離して」
「じゃあ何か?ただ単にお前は俺が気に入らねェのか?」
「…っ、キャプテン痛い」
「…………悪い、」
「…」
強く掴んでいた手をはなした。離れる体温。ほっとしたように息をつく彼女。
俺に捕まれていた手首には、赤くくっきりと指の形が浮かんでいた。指なんて難なく回ってしまう細い手首。
―ちくしょう。
「キャプテン、私もう中入るよ。呼びに来てくれたんでしょ、手間かけてごめんなさい」
数秒間の沈黙の後、口早くそう言うとローに背を向け、足元に転がっていた酒瓶を拾いだした彼女。薄いシャツには背骨が妙に浮いて見えた。
触れたい衝動に駆られるが、触れたらきっとまた驚かせるだろうし、また一歩分俺から離れていくだろう。誰かが自分から遠のくというのは気分の良いことじゃない。
意識の外側にいた波音が、大きくなった気がした。
「お前には俺がいるだろ」
「……キャプテン?」
どうしたのと彼女が言った。顔は笑っていたが目は困惑していた。
ローはなぜかしら目を離してはいけないような気がして、ただ真っ直ぐに、彼女の黒く深い瞳を見つめた。
張り付けたような笑顔はゆっくりと消えて、たじろぐ様子もなく見つめ返してくる二つの光。
「お前には、俺がいるだろう。暗い海の中に救いを求める必要なんかねェ。」
言い終わった途端一際強く潮風が吹き、彼女の髪がまるで誰かが上でちょいちょいと引っ張っているかのように、ふうわりと動いた。そのお陰で表情は見えない。髪の間から見えた彼女の口元は、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
「…そうだね。…私にはクルーがいる。…でもだめ、誰かが私を呼んでる。私を強く求めている何かが海にいる。だから船に乗ってるんだもん。海に出たんだもん」
ばらばらに乱れた髪の毛を押さえつけてゆっくりと、今までで一番美しく、ぞっとするくらい美しく、彼女は笑った。
新聞紙を一晩中煮詰めたような夜がどろどろと広がり、この息苦しさと混ざりあって二人を包んだ。
海とスクリューの回る音だけが、まるでこの時間は永遠に続くのだとでも言うようにひたすらに鳴り続けている。
ぬかるみに足をとられて
もう何処にもいけないような、
そんな気がした24時。