私は、もうすぐ死ぬんです。そう云うとあの人は顔色一つ変えなかった。ただ一言。そうか、と。あるいはそれはあの人の何かしらの意思だったのか、今でも私は何一つわからない。けれどいまさら分かったところで私はもう死ぬのだからなんの意味もないのかと自嘲じみた笑みがうまれた。
 鏡で自分の青白い肌を見るたびに、あの人の顔を思い出す。朝餉は全部残して夕べもほとんど食べ物に手をつけなかった。両親は食事にも手をつけないで日に日にやせ細ってゆく私に涙を流す。泣いたところで治るはずもなく、食事をとったところで治るはずもなく。死期が早まったって何も変わりはしない。それならもうあの人を思い出しては悲嘆に暮れる自分と早く決別したい。早く忘れてしまいたい。近頃は何もせずに朝から晩まで青々と葉が生い茂る桜を眺めて、また朝を迎えて。そんな無気力な日々を繰り返す。そうして来た今日という日に私は死ぬのだ
 今日死ぬということに根拠はない。いつもと寸分変わらない体の気怠い重さ。直感というのか、死期が近づいているせいか何となくわかる。ここまで育て上げてくれた両親にあてて文でも書こうかと思ったが、自分がもう物を持つこともままならないのだと気づいてやめにした。
 どこか遠くで蝉の声がして、その後唐突に襖が開いた。

「食事を、取らないそうだな」

 どうしてあの人がこんなところにいるのかとかどうしてそんなことを知っているのかと思う前に瞼が重くなる。

「以前会ったときよりもまた随分と痩せたようだ」

 すとんと布団の脇に座り込み手を握られる。着物の裾から覗く足からは白いさらしが丁寧に巻かれていて。なんだろう、少し躊躇いが芽生えた。握られた手の温もりがいつか交わした口づけと似ていただとか私の魚の腹のような生気の失せた肌と似ていると思っていたあの人の遥かに血色のいい白い肌だとか。
 何を今更死を拒んでいるのか、情けないこと
 耳元の声はまるで蝉とおんなじだ。確かに聞こえているはずなのに届かない。届いているはずなのにそれを理解しようとしない。

「…どうして生きようとしないのだ」

 なぜ、絞り出すような声は確と耳へと流れこんでくる。まるでなかった意識はどっと溢れ出して気持ちの悪い。あの人は確かに握った手をもう一度握り直してそっと目を閉じた。そこからはもう朧げな意識と重々しい瞼をただ起こすのに精一杯だった
 あの人はどうして今になって会いにきたのだろう、薄まる温もりを感じて思った。
 庭の方を見るとぼやける視界の中から見つけた、生きたいと切に願う私。最後の最後に心を揺るがすなんてずるいお人ね。でもそれがあの人らしい、そう嬉々とする自分も狡猾で愚物。こういう時になんて言ったらいいのかも分からない。もしも一人で居たならすぐに目を閉ざすのにね、
 渇ききった口はもう開かなくって笑える。霞んだ瞳の中で確かにあの人は目を開けて微笑んだ気がした。一色に塗り潰された視界。それからぽたりと温もりは滑り落ちた。

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