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まだ新兵だった頃、初めて古兵に連れられて行ったその場所は、古い煉瓦造りの建物だった。入口には大柄の男が椅子に座り、<兵団兵士ノ外、入場許サズ>と黒文字の貼り紙があり、そして脇には『兵士用慰安』と小さな看板が下っていた。
一緒に行った万年上等兵は、入れば分かる、と言った。そのとおりだった。
主に男兵士と、そして兵団内の女兵士への強姦等防止のため、上層部が風俗等店の設置、運営を許可していること、利用する兵士に対して罰則も規程もないことを、俺はやがて知るようになった。


「酷い匂いでしょう、ここ。人の油と、消毒液の臭いしかしない。」


店主に「なまえ」と呼ばれていた売春婦は、しっとりとした風情の、小柄で華奢な女だった。下にアンペラを敷いただけのほんの三畳ばかりの部屋で、なまえは白いワンピースを着せられて座っていた。地下街の闇と、兵服色ばかりを見慣れた俺の目にその色は眩しいほど鮮烈に映った。
なまえは自分よりもずいぶん若く、聞けばまだ18だった。子供と言ってもいい年頃の少女だった。


「路地で寝泊りしていたの」


二度目に体を合わせた日だった。
終わって服を着ながら、何の気なしに身の上を尋ねた俺に、彼女は半ば背を向けて言った。


「歩いてきた男の人に連れて行かれて、気づいたらここにいた」


棒読みのような口調で一息にそう言われ、俺は何ひとつ言葉を返すことができなかった。それでなくとも狭い部屋の壁が、四方から迫ってくるような気がした。

「閉じ込められて、店の人に服を脱げって言われて、嫌だって泣いたら叩かれて――」

ベルトを締める手が止まったままの俺を、#name1#はちらりと見た。そしてふいに微笑んだ。


「優しいですね。兵士さん。」


驚いた俺が、どうして、訊くと、


「他の兵士さんは、こんなこと聞かない。私たちのこと、便所かなにかだとしか思ってない」


事実、彼女らを公衆便所と称して憚らない連中がいる一方で、とくに経験のない若い兵士たちの中には尻込みする者も多かった。こんな汚いところで女が抱けるか、と怒り出す者。あとがどうしようもなく虚しくなるからと、一度だけで行くのをやめる者。
俺自身、二度いったきり、三度目は店の前で足を止め、逃げるように帰っていた。
だが、例によって例のごとく、そうした感覚をいつまでも保ち続けることは難しかった。狭くて暗い部屋に閉じ込められ、来る日も兵士たちの相手をしている彼女を、ならば自分だけは抱かずにいられたかといえばそんなことはないのだった。
鰻上りに出世し、皮肉なことに明日の命どころか一秒あとの命も知れない壁外へと出発する直前、あるいは戻った直後、俺はどうしようもなく彼女が欲しくなる自分を抑えられなかった。おれはまだ生きている、とにかくまだ生きている、それを実感するには、女を抱くことが一番の早道だった。


「ねえ、」

ことを終えた後で、なまえは俺の腕に頬を乗せた。
俺は彼女の髪を指に巻きつけてはほどきながら、生返事をした。


「次はいつ来る?」

「わからん」

「あなたが来るの、待ちきれないのよ。他のお店には行っていない?」

「どうだろうな」


なまえがすねたように頬を膨らませ、俺の胸をぶつ真似をする。
俺はぎこちなく手をまわし、彼女の小さな頭を抱き寄せた。


「あったかい」

「うん」

「リヴァイさん、もっと。ぎゅうって」


舌足らずな声で呼ばれると、耳慣れた自分の名前がまるで砂糖菓子の名ように聞こえた。この声で呼ばれることに、不思議な安堵感さえあった。
やがて俺は、外出日を待ちかねて彼女のところへ通うようになった。時には自分の分のメシを食わずに取っておいて、隠して持っていってやったりもした。


「最近、リヴァイは変だね」

あるとき、エルヴィンに言われた。


「変?」

「何か心配ごとでもあるのかい?」

「どうして。」

「いつも、心ここにあらず、って感じだから」

エルヴィンは何気なく口にしたのだろうが、その言葉の的確さに、俺は胸を突かれた。
俺の心はここにはない。なら、どこに。
あの部屋に――うっそうとした狭い空間で、なまえと眠る永遠のひとときに。まるで亡霊のようにさまよっているのかもしれない。
そして、ここにはない心を取り戻すため、俺はなまえに会いに行くのだ。
「エルヴィン」

「ん?」

「次に取れる休暇はいつだろう」


想いの強さに、自分でも戸惑うほどだった。女に対してそんな感情を抱いたことなどついぞなかった。
自室の窓から星のひしめく夜空を見上げていると、なぜか寄り添うように小さく瞬く星たちに心は惹かれ、いつか壁も巨人も無いどこか名もなき長閑な田舎で、肩を寄せ合って平凡に暮らす自分となまえの姿を夢想した。それは時には作戦中でさえ――、ふと気づくと、歩きながら、あるいは食べながら、寝ながら、彼女のことを考えている自分に気づく。それは夢と現実が交差するような、不思議で、残酷な感覚だった。

部下が巨人に食われ、死んでいく。出くわした巨人を仇とばかりに片端から削ぎ殺す。血肉が飛び交い、悪臭が漂う。そんな地獄を行き来するような日々のなかで、生き残り、再びなまえの血の通った体を胸に抱くと、ただその温かさと柔らかさが愛おしくて、たまらなかった。


「なまえ」

「リヴァイさん、好き」


抱かれるたびに、彼女はうわごとのようにくり返す。


「好きなの。」


そういう言葉を信じて酔えればどんなにいいだろうと思うが、残念ながらそこまでお人好しでもなければ、純情でもなかった。そんな勇気もなければ、自信もなかった。
これまで、何人の兵士にそう言ってきたのだろう。嫉妬からではない。そう口にせざるを得ない彼女が痛々しくてたまらず、そうさせる側にいる自分がいたたまれない。
「好きなの」
その言葉は、性行為にはあきたらず、平気で手を上げようともする男たちに立ち向かう時の、たった一つの盾なのではないだろうか。


「私のこと好き?」


あれは、何度目に通ったときだったろう。
それまでは、何度自ら告白しようと返答を求められることはなかったのに、なまえはなにを思ったのかその日、一度果てた俺の下でふいにそう口零した。
かっと胸奥が熱を持ち、それを気づかれまいとして、俺はなまえの頭を抱えて仰向けになった。


「べつに」

「もう、それじゃあだめ」


笑みを含んだ目でこちらを睨みながら、


「そういうときはね、嘘でも、好きだよ、とか愛してるよ、とか言うものなのよ」


俺は唸った。


「言ってよ。誰も聞いてやしないわ」

「眠いんだ。今度にしろ」

「だめよ。ね、リヴァイさん。言ってくれたら、私ももう眠るから」

「・・・」

「寝たの?」

「・・好きだよ。」


とたんに背中のあたりがむず痒くなり、わけもなく身をよじりたくなったが、悪い気はしなかった。


「私も好きよ」


照れ臭そうに口をすぼめ、俺を見上げるなまえの柔らかな瞳を見ているうち、何か自分でも正体のつかめない、じっとしていられないような気持ちがつきあげてきて、俺は彼女の頭を胸にきつく抱き寄せた。


「嬉しい。」

「大好きだ。なまえ。」

「ありがとう。ありがとう、リヴァイさん。」


私も大好きよ。
なまえは、嬉しそうに笑いながら、頬に鼻先をこすりつけてきた。
今までそれを口にしてはならない気がしていた罪悪感など、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
熱情とは、始末に終えない。
なまえと共に生きる、それができればどんなにいいだろう。俺が明日、あるいはこの先、いつか死ぬ事が決まっているとしても。愛しているから。好きだから。
だがほんとうに言いたいことを、なにも言うことはできなかった。この囲われた箱の中で、彼女を犯し続けているのは一体誰だというのだ。
俺もここに通い詰める客のひとり。ただのクソ野朗に過ぎない。



なまえが姿を消した。それは一ヶ月遅れて俺の耳に届いた。壁外調査に駆り出され、長く留守にしていたからだ。
詳しい話を聞かせてくれたのは、仲間の売春婦だった。
その前の日、いつものように客の相手をしたなまえは、風呂に入り、あまりに出てくるのが遅いというので、店主が様子を見に来ると居なくなっていた。風呂場には小窓ひとつなかった。どこから逃げ出したのか、どこに行ったのか、それは今でもわからない。
部屋から一切の荷物は消え、浴槽に、あのワンピースだけが一枚浮かんでいたという。

「いつかこうなると思ってた。」

と、仲間の売春婦は言った。

「なまえは、いつからか知りもしない外の話ばかりしていたから。誰にしてもらったのかわからないけど、壁の向こうの話や、古い古城の話まで。ほんとうに人が変わったみたいに、生き生きした様子でね。いつも外に行きたいって、どうしても行きたいところがあるって言っていたから。」

頭の奥で何かがはじけ、目の前が鮮やかに色づいた気がした。
俺は、転げるように店の外へ飛び出した。ついさっき来た道を走りながら、何度も心の中で彼女の顔を思い浮かべた。
幾夜も醒めた頭で真に受けるなと努めたあの言葉――。
―――あなたが来るの、待ちきれないのよ

道沿いに咲く花から、すり抜けていく風から、木の葉を揺らす草木から、なまえの声無き声が聞こえてくるようだった。

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