「血」 「あ?」 「鼻血出てんぞ」 ふいに伸ばされたロジャーの指先がレイリーの鼻の下を撫でる。 乾燥したロジャーの硬い指先が垂れている血を拭えば、その硬い指先に引っ掻かれ痛みが走ったのかレイリーは眉間に皺を寄せた。 擦られた部分をレイリーが自身の指先で拭い直せば、ドロリと出続ける感触の赤黒い血が一本の指先で押さえきることはできずに垂れていき、腕につたっていく。 「っと」 手の甲で垂れてくる血を拭いながらレイリーは上を向いた。 行方知らずの浮かれ熱 「人魚でも見たか、相棒よ」 手すりにもたれ掛かるようにして水平線を見ていたロジャーはぽつりと呟く。 穏やかな航海がここ数日続き、船内は海賊船というより漁船(しかもゆったりとした)に近い空気を持ち船員も船長を筆頭にどこか抜けた顔立ちになっていた。 この空気に自分も犯されてしまったのかも知れない。さらに深く眉間に皺を寄せながらレイリーは鼻頭を強く抓る。 「残念ながら私の視界には始終野郎共しかいないのだよ、我が船長」 鼻を抑えながら話すレイリーの声はいつもと違く、こもったような声だ。 上を向いて応急処置というよりとりあえず鼻血が止まるのを待っているようなレイリーの体勢を横目で見ると、ロジャーは体を起こして自分のサッシュを外し、レイリーの顔に被せた。 「拭いとけ。んな悪人面が日中から顔面に血なんかつけてたらガキ共が怖がる」 「人の事言えるか」 それでもレイリーは素直にロジャーのサッシュを受け取り、手に付いていた血と共に鼻を拭い、ついでに鼻をかんだ。 「遠慮ねぇなー。船長のサッシュで鼻をかむ奴なんて前代未聞だぞ。たぶん」 「何、あんたの存在がそんなものだから平気だろ」 レイリーは何とでもないように若干噛み合ない言葉を言い放つと、おそらく見えていないだろうが水面を見ながら自分の鼻の下を擦る。 その姿をロジャーは3度瞬きをしながら見つめ、それから大袈裟に手を叩いた。 「腹が減ったな!」 「あ?」 「んだよ何か忘れてると思ったら昼飯の時間じゃねーか。うっし、上陸するぞ」 まくし立てるように話すロジャーは舵を取るクルーに指示を出す。出そうとする。 ロジャーが口を開いた瞬間、何か気付いたかのようにレイリーはとっさにその叫びそうな口を汚れていない方の手で塞ぐ。 「んが」 「上陸って…次の島まであと5日はかかると朝に言ったばかりだろ」 「…あの辺に見えるじゃねぇか」 塞がれた手をよけ、髭を直しながらすっきりとした海の向こうに見えるいくつかの続いた島を指差す。 小さく見えるその島は人が住んでいるかどうかも確認出来ない程の大きさだ。例えこの地域周辺の海図に載っていたとしても必要でないログが溜まるのは確かだ。 「あそこのログは必要でないと説明しただろ」 「おめーよ、ログと飯どっちが大事だ」 「ログに決まってるだろ」 「ったくロマンがねぇ男はモテないぞ」 「僻みか?」 ついでとばかりにロジャーの口を塞いだ手をサッシュで拭きながらレイリーは可哀想な物を見るような目でロジャーを見る。 「……どうとったらそうなんだ。いいかレイリー、よく聞け船長命令だ。俺は今すぐ飯が食いたい。店の、酒場の、酒が飲みてぇ!」 「我が儘言うのも大概にしろよ馬鹿船長がっ…!?」 思わずロジャーの胸ぐらを掴んだ瞬間レイリーの体勢はぐらりと揺れ、目の前のロジャーの胸に倒れ込んだ。 「ほら、上陸するぞ」 一瞬遠のいた意識は近くに聞こえる声で覚める。顔を上げればいつになく真剣な眼差しで海を見るロジャーの顔が目の前にあり、レイリーは反論しかけた口を閉じるしかなかった。 とりあえず目の前の胸板を押し返すようにして立ち上がり、ずれた眼鏡を直しながらロジャーを見れば目の前のスカーフに血が付いているのが見えた。 「すまない」 まぎれも無くレイリーのであろうそれに素直に謝罪する。 「こんなのどこにでも売ってるだろ。それより上陸だ上陸、こっからあそこの右端にある島まで行くぞ。夕日が沈むまでにだ」 「ロジャー、何をそんなに急いでいる」 乱れたスカーフを直そうと手をかければロジャーにそれを払われる。背中を手すりに預けるようにもたれ掛かかるロジャーはスカーフを外し、首を傾げてレイリーを見た。 「……お前、知らねぇのか」 「だから何がだ」 「この北端の海を越える時に出る鼻血は決まって疫病か何かの類いだぞ」 「初耳だな」 「聞くんじゃねぇ、知るんだ」 「お前の知識には感心するが何も鼻血1つで針路を変えていたらキリが無い。どうせ熱でも持ったんだろう、冷やしてくる」 話しにならないとでも言いたげに船内に戻ろうとするレイリーの右腕を強引にロジャーは引き、半ば倒すかのように甲板に座らせる。と、そのままロジャーは不服そうに座るレイリーを腕を組んで見下ろす。 「もう一度言う、これは船長命令だ。ここにいろ」 口答えは聞かないとでも言いたげに手に持っていたスカーフを海に投げる。 それを目で追えば白いスカーフがまるで旗のように風に乗り波にさらわれた。 「……了解」 久しぶりに聞いたその真剣な声を耳に残し、手持ち無沙になったレイリーは空を仰ぐ。 まだ少し残っていたのだろう。上を向けば残った鼻血が口に垂れてき、何となくそれを舐めとれば口内に鉄臭さが広がり不味そうに横へ唾を吐く。 「上出来じゃねぇか」 それを見てロジャーは満足そうに目を瞑る。そうすればタイミングよく吹いた風が、ロジャーの何も纏わなくなったベストをなびかせ襟を揺らす。 いったい何が上出来だ。そんなロジャーを眺めながらこの気紛れすぎる航海と船長の行動に意味があるようにと珍しくレイリーは信じてもいない神に祈った。 あの時に上陸した島で空島の伝説を聞くのは運命だったのだろうか。 疫病というのはやはり嘘だったが軽い熱中症を起こしていたレイリーにとってはいい休息になった。中々自分では気づかねぇもんだ、と酒の席でロジャーはレイリーの横で酒を煽り笑った。 あれはレイリーを気遣っての提案だったのだろうか。何となく聞き逃した答えは未だに得る事は出来ていない。それに今更何十年も前の事を聞くのも野暮って物だ。 それにしてもあの真剣な声と眼差しは今でも鮮明に思い出せる。あれがあの人の直感という物だというなら随分と我が船長は人を惹きつけるのが上手い。 荒れ狂う海に針路を進める船は左右に船体を揺らしながらも力強く風に乗る。 レイリーは手すりを撫でながら船首に立つ船長の後ろ姿を眺め、浸っていた以前の記憶を再びしまう。まさかあの時の気紛れな上陸でこんなにも運命が変わってしまうなんて誰が予想しただろか。 あの時の鼻血はきっとこれからの熱い冒険に熱を持ったからだ。 鼻を啜りながらレイリーは我ながら上手い事を考えるな、と小さくほくそ笑み船長が呼ぶ船首へと向かった。 |