自分が望んだことがこんなに苦しいとは思わなかった。どうすることが正しかったのか、それは解らない。ずっと考えていたけどこれでよかったと思うしかなかった。どちらにせよ、私と彼女では住む世界が違った。いずれ訪れる別れなら早い方がいい。共にいた時間が長ければ長い程辛くなる。解っていたことだからいい。
それでも惹かれたのは、紛れも無い自分自身。
「…随分長い風呂だったな」
部屋に戻ると珍しくまだ起きている小平太がいた。いつもならもう寝ている筈なのにどうしたのだろう。特に気に留めず後ろ手で戸を閉める。風呂上がりの為に熱い額に手をやった。
「…斉藤に捕まった…」
「あぁ!長次の髪、綺麗になったからなぁ」
小平太はけらけら笑うが私にとっては大変なことだった。私がこっちに帰って来てからほぼ毎日と言っていいくらい斉藤に追いかけ回されて、捕まれば相手の気の済むまで髪をいじられる。普段の斉藤は一年よりドジなのに髪が絡むと凄まじい。それでも六年の意地もあって逃げ切れていたけど、風呂で遭遇したら逃げられない。湯に浸かったままずっと髪を触られた。
確かに髪が綺麗になったとは思う。自分で髪を掴めば滑らかに指をすり抜ける。これはきっと名前の家にあったものが原因だろう。しゃんぷーとりんすと斉藤が言うには食べ物がよかったから、らしい。一月経った今でも髪はさらさらしている。
「よし長次、飲むぞ」
「…は」
「明日は休みなんだ。いいだろう?」
布団を敷いて横になろうとしたら小平太がそんなことを言い出した。視線を向ければ瓶を持っている。ちゃぷんと音がして中身は酒だと解った。もしかして私と飲む為に起きていたのだろうか。ずっと湯に浸かっていたから体が怠かったけど小平太はにこにこ笑っていて、寝るのは無理だなと思った。小平太は杯を手に縁側へ出る。諦めて小平太に続くと杯を渡された。
「こうしてゆっくり話すのは久しぶりだな」
「…忙しかった」
「みんな騒いだからな」
あの日、名前が眠った隙に私と小平太はこっちへ帰って来た。光る朝顔に触れたら突然ふっと足場が消えて、私と小平太が落ちた落とし穴がある中庭に落ちた。真夜中に大きな音を立てたから先生方や文次郎が武器を構えて出て来たのが少し面白かった。私がいることに気付くとすぐに医務室に連れて行かれた。体に異常は無いのに新野先生や伊作は安静にしろ、の一点張り。それから医務室に学園長がいらして、私は総てを話した。
先生方も六年の奴らも皆声を失った。嘘だと言った。だが嘘じゃないと私も小平太も言い返した。妙な神隠しがあったものじゃのう、と学園長は笑っていた。私が嘘をつく人間では無いことを皆よく知っている。だから、私が未来へ行ったことは信じて貰えた。
それからは興味津々になった全員からの質問攻めだった。先生方や六年は勿論、何処から漏れたのか一年から五年生まで質問された。未来はどうだったのか、どんなものがあるのか。話してやりたかったけど、どれも言葉にならなかった。
「未来は不思議だったなぁ。飯は旨いし面白いカラクリはあるし!」
「…あぁ…」
「わはは、長次が今何を考えてるか私には解るぞ」
小平太の言葉に杯を持つ手がぴくりと震えた。見れば鋭い視線が私を貫いている。元から眼光の強い男だったが今は普段よりも力があるように見えた。
「名前のことだろ?」
「……」
「無表情なお前のことだから周りの奴らは気付かないけど、私には解る」
六年間一緒にいたからな、と笑って小平太は杯を一気に仰いだ。それを真似して口に含むと、やけに苦く感じた。酒には強い方だと思っていたけど喉が痛い。突然下戸になることなどあるのだろうか。
小平太の言う通りだった。こっちに帰って来てからというもの、頭に浮かぶのは名前のことばかり。突然帰ったから絶対に怒ってるだろう。でも、謝ることも咎められることも出来ない。私は帰って来てしまったのだから。自分で選んだことなのに後悔してしまって自己嫌悪に陥る。馬鹿げてる、私は。
「あの夜、私が起きてたのは気付いてただろ?」
「…あぁ」
「長次があんなことを言うとはびっくりしたが、私は嬉しかったぞ。長次にもそう思える人が出来たんだって」
空になった私の杯に小平太が酒を注いだ。正直もう飲みたくなかったけど、何故だか断れなかった。
「だから私は、今の長次が嫌いだ」
「……」
「苦しいなら逢いに行けばいいじゃないか」
本で調べると満月には不思議な力があるらしい。載っている資料は全部曖昧だったけどそれだけ解れば十分だった。そう、何度も思った。満月の日にまた落とし穴に落ちれば名前に逢えるかも知れない。だけどそれを実行するのが怖くて、暦が読めなかった。
またあっちに行けたとしてどうする。名前に逢えたとして、どうしたらいい。私はあっちで生きることは出来ない。どうせまた別れることになるのだ。それにもし名前が他の男といたら。
行けなかったらそれはそれで私は絶望する。だから怖くて、私は何も出来なかった。
「…らしくないな!」
バンッ!と背中を叩かれた。その衝撃の強さに杯が手から離れて床に転がる。次に凄まじい痛みが背中を襲って私は体を丸めた。痛すぎて声が出ない。懐に手を入れて縄標が無いことに気付いて唇の端が吊り上がるのが解った。
「悩んでたって始まらないんだぞ。それならいけいけどんどんで行動開始だ!」
「……」
「いけいけどんどーん!」
まさか小平太に励まされる日が来るとは。気分が上がって来たのか小平太は瓶から酒を飲み始めた。その横顔を見つめてつい小さく吹き出した。
悩んでたって始まらない。そんな簡単なことがどうして解らなかったのだろうか。そうだ。選ぶのは自分自身。行動するのも私以外有り得ない。
とりあえず今は夜なのに叫び出してしまった小平太を止めよう。そう思って部屋にある縄標に手を伸ばした、瞬間。
「うわぁあああああッ!」
「いけいけど…ん?長次、何か言ったか?」
「……」
少し離れたところで悲鳴が聞こえた。甲高い、女の声。
全身が、ドクンと脈を打つのが解った。
裸足のまま外へ飛び出して声のした方へ走った。小平太が後ろをついて来たけどどうでもいい。中庭の方向、そう遠くない。中庭にはぽっかり穴が開いていた。こんなことをするのは四年の綾部だけだ。
じゃあ、こんな時間に、落とし穴に落ちるのは。
「いっ、たたた…落とし穴の中に落とし穴ってお母さん張り切り過ぎ…」
落とし穴から腕が伸びる。ゆっくり、ゆっくり体が上がって来る。
「考えて掘ってよ、私体もたな…」
目が合って声が途切れる。
そこにいたのは間違いなく、想い焦がれていた、あの彼女だった。
(空には満月が浮かんでいた)