「そこは跳ねる」
「あ」
「大丈夫。落ち着いて書きなさい」
土井先生がくすくす笑って新しい紙を用意してくれた。これで四回目になる。恥ずかしいな。勉強って大変だ。手は墨で汚れてしまうし筆の持ち方ひとつにしたって難しい。でも、楽しい。いろはうたを書きながらわたしはずっと笑っていた。
教室は静か。わたしと土井先生しかいない。きり丸たちは山田先生とランニングに行った。お昼には帰って来るらしくてご飯は一緒に食べれるって土井先生が言ってた。みんなが帰って来る間にたくさん書いてたくさん覚えなきゃ。わたしが文字を覚えればみんなと文字で話すことができる。きり丸はちょっとずつ読唇術を覚えてくれてるけど他のみんなはぜんぜんだから。ほんとは一年生が覚えることじゃないから仕方ないから、わたしは気にしてない。早く覚えてみんなと話したい。そればっかり考えていた。
「…なまえは団蔵の字そっくりだな」
「え?」
「いやいや、なんでもない。焦らずゆっくり、丁寧にな」
「はーい」
「…なまえはきり丸が好きか?」
手を止めて土井先生を見上げると、土井先生はとても優しい顔で笑っていた。緩く細まった目がなんとなく父さんに似てる気がして少し悲しくなった。
「すきです。きり丸がいなきゃわたし、きっと死んでたから」
「…そうか」
「きり丸に教えてもらったんです。父さんと母さんに守られた自分を殺しちゃいけないって」
「…きり丸が?そう言ったのか?」
こくりと頷いたら土井先生は目を丸くした。わたしは何かおかしなことを言ってしまったかな。土井先生は顔をくしゃりと歪めて笑った。何かを噛み締めるみたいな、幸せそうな笑顔だった。
「それはな、私がきり丸に言った言葉なんだよ」
「…え?」
「きり丸もなまえと同じ。親がいなくて家も無い、戦孤児なんだ」
目を見開いた。高いところから落ちたような、すさまじい衝撃が身体を貫いた。きり丸が、わたしと同じ。父さんも母さんもいなくて帰る家も無い。わたしと、同じ。わたしは死のうとしてきり丸に止められた。その時に言われた言葉を土井先生がきり丸に対して使ったことがあるなら、きり丸も死にたいと思ったことがあるのかな。だからきり丸はわたしをこんなに助けてくれるのかな。自分と同じだから、だからきり丸は。
「…どうした?」
「きり丸、かわいそう」
「何故だ?」
「解らない、でも」
解らない。なんでだろう、涙が零れた。ぼろぼろ出てきて紙にシミを広げる。すごいと思った。きり丸はわたしと同じなのにあんなに強い。かわいそうなことがあったのにそれを全然感じさせないくらい、強い。すごい。偉い。土井先生の大きな手がわたしの頭を撫でる。父さんと似ている手が好きで、悲しくなるから少し嫌いだ。
「きり丸は可哀相じゃないよ。よく笑うだろう?」
「わたしも、きり丸みたいになれますか」
「なれるなれる。だから頑張ろう」
チーンしなさい、と鼻にちり紙を当てられた。素直にチーンと鼻をかむと土井先生がくすくす笑った。お前達は似ている、と。
わたしはその日頑張って『きり丸』と『なまえ』の文字を覚えた。