なまえは失声症といって、突然声が出なくなる病気にかかってしまったらしい。目の前で親が殺されたのを見たショックだろうと新野先生が言っていた。それって一体どんな気分なんだろう。苦しい?痛い?辛い?解らない。少なくとも今の俺には解らない。次なまえに会う時、俺はどんな顔をしたらいいんだろう。自分の血で真っ赤になったなまえを思い出す。どうしようもなく背筋が震えた。びっくりするくらい、昔の自分と重なった。
「先生、俺に読唇術教えて下さい」
「……」
「…土井先生?」
午前の授業が終わってから土井先生にそう言ったら土井先生は固まってしまった。俺はなんか変なこと言ったのかな?土井先生の顔の前で軽く手を振る。そしたらその手をガッ!と掴まれた。呆然とする土井先生の両目からボロボロッと大粒の涙が零れる。突然のことに俺はぎょっとした。
「きっ、きり丸が、きり丸が私に、『教えて下さい』なんて言う日が来るとは…!」
「…それ、かなり失礼っすよ」
げんなりした。そりゃあ毎回毎回視力検索みたいな点数を取るくらいの成績なのが悪いけど何も泣くことは無いじゃないか。土井先生はすまんすまん、とか言いながら涙を拭いている。鼻水も出ていた。いい大人がかっこ悪い。やっと落ち着きを取り戻したのかついて来い、と言った。土井先生の背中について行くと土井先生は自室に入っていく。すぐに出て来て一冊の本を手渡した。
「一先ず簡単なのから私も一緒にやっていくが、それにも目を通しておきなさい」
「はーい」
「それにしても、一体全体どういう風の吹き回しだ?」
「何がすか?」
「いきなり読唇術を教えろなんて」
訊かれて、固まった。俺が読唇術を知りたい理由。それを考えたらあの血まみれのなまえが浮かんできてしまった。受け取った教科書を強く握り締める。
「…なまえ…」
「…そうか」
土井先生は一瞬驚いたような顔をして、すぐに笑った。自室の戸を開けて入りなさいと言う。その言葉に素直に従った。
なまえと話がしたい。何故だかそう思った。話す内容だとかは考えてない。ほんとうに理由もなく話したいと思った。なんだか、放っておけない気がした。たぶんなまえに自分を重ねているんだと思う。あの時の俺はひとりでいたら何を仕出かすか解らないくらい危なかったからきっとなまえも同じだ。ひとりにしていたらきっとまた自殺を考える。躊躇いなく死んでしまう。そんな女の子を放っておけない。話がしたい。
「責任を押し付けるつもりじゃないが、なまえのことを頼む」
「なまえの声はいつ出るようになるんすか?」
「…解らない」
「…え?」
「明日かも知れないし、何年も先かも知れない。ずっとこのままかも知れない」
冷たい水を頭からかぶった心地だった。心臓から、ぞくぞくと冷えていく。なまえの声はいつか出るようになるものだと思っていた。何年か先でも出るようにはなるものだと。だけど、出ない可能性もあるとは思わなかった。膝に乗せた手が震える。土井先生に肩を叩かれて、身体がビクリと跳ねた。
「お前が怯える必要はないよ」
「……」
「なまえを一番解ってあげられるのはお前だ。しかしお前が絶対に『しなくてはいけないこと』じゃない」
気負うことはない、と土井先生は穏やかな声で言った。その言葉のお陰かこわばった身体から力が抜けていく。土井先生には敵わない。何でも解っているんだ、この人は。
土井先生の言う通りだ。なまえを一番解ってあげられるのはたぶん俺だ。だけど、だからと言ってなまえのことを全部背負い込む必要はない。それは解っているけど、何もしないのは、格好悪い。昨日初めて会った女の子相手に変な話だと自分でも思う。なんか俺らしくない。でも昔の自分と重なるんだ、放っておけない。ハアと溜め息を吐き出すと土井先生がくすくす笑った。
「…情けねえっす」
「いいや、きり丸は素晴らしいよ。だから早く読唇術を習得しような」
「はーい」
さっき受け取った本を開く。習得するしないは関係なく、とりあえず今日もなまえに会いに行こうと思った。