春が来た。城の敷地内にある桜が咲き乱れ、花弁が地面を綺麗に染めている。太陽の光も心地よい。春は好きだ。好きだけれど、ひとつ、嫌なことを思い出す。

あれはこの城に来て一年目の春だった。あの日は戦を終えて帰路についたのだ。夕暮れ時で、あの時も桜が散っていて、こんな日に戦なんて勿体無いなあとなまえがぼやいていたのをよく覚えている。通常忍は主人と並んで歩くことはしないのだが、なまえは「細かいことは気にするな」と何処かで聞いたような台詞を言っていた。だからその時は、馬に跨るなまえの斜め後ろを歩いていたのだ。不意に、かすかな火薬の匂いが鼻腔をかすめた。何故?誰も火縄銃など構えもしていないのに。嫌な予感が胸をよぎる。歩きながら周りを見渡すと、少し離れた草むらからほんの僅かだが煙が上がっているのが見えた。

私が地を蹴って跳ぶのと、激しい銃声が辺りに響き渡ったのは、ほぼ同時だった。

一瞬遅れて、右肩に激痛が走る。撃たれたらしい。衝撃とショックでバランスを崩した私は着地も出来ず受身もままならず、地面に強く額を打ち付けた。後から聞いた話だが私はそれによって軽い脳震盪を起こしてしまったらしく、それからの記憶がぷっつりと消えてしまっている。たくさんの人間に囲まれたくさん名前を呼ばれたが反応出来なかった。意識が完全に飛んでしまう前に震えた声がちょうじ、と私を呼んだような気がした。

次に目が覚めた時は城内の一室だった。どうやら布団に寝かされているらしい。首だけを動かして薄暗い部屋を見渡すと、其処は私の部屋ではなく、主人の部屋だということが分かった。だが主人の姿は無い。少し痛む頭を押さえゆっくり身体を起こす。撃たれた右肩は勿論痛かったけれど、既に血は止まっていた。額と肩に包帯が巻かれている。どうやら夜らしい、外は静かだった。


「……」


しばらくぼうっと宙を眺めていたが、いつまで経っても部屋の主が帰って来ないから、探しに行くことにした。枕元に綺麗に畳まれた装束を纏って部屋を出る。廊下を照らす灯りを見つめ、小さく息を吐き出した。こんな時間に何処に行ってしまったのか。主人の性格を考えれば、私が目覚めるまで待っていそうなものだけれど。

まず一番心当たりのある稽古場へ向かうと、中からキュッとひとの足音がした。予想は当たったようである。稽古場の入口から中を覗くと、丁度中央に立つなまえの姿があった。手に木刀を持っている。稽古でもしていたのだろうか。こんな時間に?偶然なのか私の気配を感じていたのかなまえは身体ごとこちらを向いていて、すぐに視線がぶつかった。


「…こんな時間に、何をしている…」

「……」

「…なまえ?」


なまえは何も言わず、ただ真っ直ぐに私を見ていた。無表情だと思ったが、違う。眉が僅かにつり上がっているように見えた。そこで初めて気付いた。なまえは私を見ているのではなく、睨んでいるのだ。なまえに睨まれたことなど無かった私は純粋に驚いてしまった。なまえは私から目を逸らすことなく、ゆっくりと口を開く。


「…何故、私を庇ったんだ」


こぼれた言葉は、思っていたより静かで、震えていた。なまえの声はこんなに弱々しかっただろうか。なまえもこんな声を出せるのか。言われたことを何度か頭の中で繰り返す。

そう。私はあの時、なまえを狙った残党から、なまえを庇った。

煙を上げる銃口は、確かになまえに向いていた。将の首を狙うのは何も可笑しいことでは無い。特になまえは戦場での名が売れ過ぎていた。目障りだと思う輩は多いだろう。だが普段のなまえに隙など無い。だから帰路について油断していたところを、狙われたのだ。なまえの頭を撃ち抜くはずであった鉛玉は、なまえを庇わんと跳躍した私の肩に命中した。その後残党がどうなったのかは知らない。誰かが仕留めたとは、思うけれど。


「!」

「構えろ」


突然、眼前に木刀が飛んできた。慌ててそれを取れば、主人はとんでもないことを言い出している。構えろとは一体どういうことだ。そう口を開きかけた私の目に映ったのは、既に走り出したなまえの姿だった。

カンッ、と甲高い音が響く。上段を狙われた攻撃を、寸でのところで受け止めた。急に何だ。急に何故。驚き過ぎて声も出ない。木刀が震える。鍔迫り合いの向こうで、なまえが強く歯噛みした。


「何をしている、だと?…それは私の台詞だ!」

「…なんのことだ」

「何故私を庇ったんだ!」


叫び、なまえは後方へ跳んで距離を取った。私を睨み、切っ先を向けている。

今、気付いた。なまえは怒っている。それも相当。私が庇ったことが、彼女はそんなにも気に入らなかったのだろうか。プライドを傷付けてしまったのか。何故そんなことを訊くのか、何故なまえと撃ち合わなくてはいけないのか。言いたいことも訊きたいこともあったが、それを言葉にすることは出来なかった。なまえは目を細めたかと思うと、再び私へと撃ち込んで来た。何も分からないまま、私となまえは撃ち合うことになってしまったのだった。

単純な力勝負であれば私にも勝機はあった。だが刀での勝負は別だ。なまえは自分の弱点である筋力を補う為のスピードと柔軟性がある。適応能力が高いというのか、なまえはその場の状況に合わせるのが凄まじく早かった。そしてなまえの最大の強さは、攻撃をいなすところにある。


(当たらない…当たってもダメージにならない)


どれだけ撃っても持ち前の素早さで躱される。木刀同士ぶつかったと思えば、その威力を上手く吸収して流されてしまう。まともに組み合うことはしない、そうすれば負けてしまうのが自分で分かっているから。なまえとこうして撃ち合うのは初めてだが、改めて、強いと思った。本当に女なのかとつい疑ってしまう。勿論そこらの男より筋力もあるだろうが、それにしたって強い。速い。本気で撃ってはいけないと心の何処かでブレーキをかけていたが、要らぬ心配なのかも知れない。

木刀がぶつかり、ギリリと音を立てる。避けるかと思えばなまえは真っ向から押し合いを仕掛けて来た。ただ押し合いだけなら負けることは無いだろう。しかし、この状況でなまえがそんなことをするだろうか?避けている方がなまえにとっては楽であるし、押し合えばいずれ力負けするのはなまえだ。そんな不利な状況に果たしてなまえは持ち込むのか。

視線は外れない。外せない。だが突然、一瞬の隙をついてなまえが私の足を思い切り蹴った。まさかそんなことをされると思っていなかった私は少しバランスを崩してしまう。すぐに立て直そうとした私の視界の隅で、何かが光るのが分かった。


「!」


右肩に激痛が走る。あまりの痛みに一瞬目の前が白くぼやけたように見えた。何が起きたのかすぐには理解出来なかった。動きが止まり腕から力が抜ける。そこを見逃す主人ではなく、彼女は片手で私の襟を掴みその場に組み伏せたのだった。床に押さえ付けられたままなまえを見上げる。その手に握られたモノを見て、私はやっと理解した。

なまえが懐から短刀を取り出し、鞘のまま私の肩を殴ったのだ。

光ったのは鞘が灯りに反射したのか。どうでもいいことを考えながら、床の冷たさを感じていた。まさか、まさか撃たれた肩を殴られるとは思わなかった。普通に痛い。なまえは私から目を逸らすことなく、変わらず睨み続けている。


「これで分かったか」

「…何が…」

「これで私はお前より強いということが分かったかと言っている」

「…は?」


なまえは今、何と言ったのだろうか。言われた言葉の意味が分からずなまえを見上げる。なまえは私の頭のすぐ近くに片膝をつき、私の襟を掴んできた。


「私はお前より強い。だから、お前に庇って貰う必要は無いんだ」

「……」

「もう二度と、私を庇おうなんて思うなよ」


言われたことを、何度か心の中で呟いた。そうか。なまえはやはり、私に庇われたのがとてつもなく嫌だったのだ。自分より弱い人間に庇われるのが、彼女にとって屈辱でしかなかったのだろう。なまえの目はまだ怒りに燃えている。

でも、と思った。それは可笑しいと。


「それは出来ない」

「…あ?」

「…確かに私は今、お前に負けた…だがそれは、お前を庇ってはいけない理由には…ならない」


思ったことをはっきり口にすれば、なまえはカッと目を見開いた。それと同時に襟をぐっと引き寄せられる。なまえはすぐ近くで睨んで来たが、不思議と怖くは無かった。


「私は強い!弱いお前に庇われずともよいのだ!」

「…じゃあなまえは、私がなまえのように何者かに狙われていると分かった時…庇わないと言えるか」

「…な、あッ!」


襟を引いたままのなまえの手を掴む。反対方向に捻ってやるとなまえは痛みにバランスを崩した。その一瞬を逃がすほど私も間抜けではなく、両膝をつき倒れ込もうとしたところを押さえ付け、背中に回った。両手を背中に持って来て手首を掴む。これでもう動けないだろう。しかしなまえ相手に油断は出来ない。万が一の為になまえの腰に片膝を乗せた。それまで抵抗らしい抵抗をしなかった、否出来なかったなまえだったが、突然火が着いたように暴れ出した。


「狡い!卑怯だ!」

「…怪我したところを遠慮無しに殴る奴に言われたくない」

「離せ!」

「質問に答えて欲しい…」

「…私はいい!でもお前は駄目だ!」


それでは答えにならない。子どもが駄々をこねているのと一緒だ。そう言い掛けて、口を閉じた。なまえの動きが止まる。肩が少しだけ震えていた。


「だってお前、起きなかったら…っ」

「……?」

「し、しんでたら、どうするつもりだったんだ…!」


絞り出すようにこぼれた声はやはり震えていて、潤みを帯びていたように聞こえた。まさか、と思った。だがそれは有り得ないことだ。そんなのは見たことも聞いたことも無い。嘘だろう。震えるなまえの肩を掴み強引に振り向かせた。特に抵抗もしなかったなまえは簡単にこちらを向く。

眉間をきつく絞り、歯を食いしばり、両目から大粒の雫を零して、なまえは泣いていた。

なまえが泣くところなど初めて見た。その姿に本気で驚いた私は思わずなまえの拘束を解いてしまった。だがなまえが再び攻撃をしてくることは無い。その場に座り込むとそのままひっくひっくと泣き始めた。


「お、お前が、もう目を覚まさないんじゃないかって、わた、わたしは…っ」

「……」

「こわくて、たまらなかったんだ…!」


そう言って涙を流す姿に、いつものなまえらしさは微塵も無い。目の前にいるこのひとは、一体誰なのだろう。私はそう思っていた。こんななまえは知らない。子どものように泣くなまえを見て、私はとんでもないことをしてしまったかのような心地に陥った。

なまえは怒っていたのではない。私が死んでしまうのではないかと、怖がっていたのだ。

目を覚まさない私を、なまえはどんな気持ちで見ていたのだろう。自分を庇った所為で死んでしまうのではと、どれだけ自分を責めたのだろう。居ても立ってもいられずこの道場へ来て、何を考えていたのだろうか。濡れる頬を隠すこともせず、なまえは私を見つめていた。なんとなく責められているようなその視線を、逸らすことが出来ない。自分がしたことが間違いだとは思わないが、でも泣かせるつもりでは無かった。そんなに怖がらなくてもよいのに。私はこの主人と、約束をしたというのに。

自分の袖で主人の頬を拭う。なまえは抵抗することなく、されるがままだ。


「…私は、なまえに、ちゃんと誓ったはずだ」

「…そうだ。忘れたとは言わせない…お前は絶対に」

「なまえより先に死なない」


私がなまえに仕える時に、誓ったことだった。どんなことがあっても絶対になまえより先に死なない、と。その誓いを忘れたことは無い。なまえはそろりと手を伸ばすと、私の胸に縋るように寄り掛かった。傍から見れば恋仲のように見えたのかも知れないその光景は、私にはとても儚いように思えた。流石に抱き寄せることは出来ず、震える肩に手を置く。気の利いた言葉など浮かばない。なまえの長い髪が、小さな背中を滑り落ちた。


「…泣くな」

「…泣かせたのはお前だ」

「もう、泣かせないようにするから」

「…絶対だぞ」


絶対だからな、となまえは私の胸にぎゅうとしがみついた。鼻を鳴らしているものの、もう涙は止まったようである。しばらくそのままにしていた私達だったけれど、ふとなまえが動かなくなり、重心を預けてくるようになった。まさかと顔を覗き込むと、主人は眠っていた。疲れたのだろうか、安心したのだろうか。いくら温かくなってきたとは言え、このままだと風邪を引いてしまう。小さな身体を抱きかかえ、私はなまえの部屋へ向かった。

後日聞いた話だが、私は丸一日気を失っていたらしい。それをなまえは、片時も離れず見守っていたのだとか。なまえが泣くほど心配する訳だと思って、そうか、心配していたのか、なんて思ってしまった。忍である私を、主人は心配していたのだ。申し訳無い気持ちと嬉しい気持ちとが入り交じりつい口元が緩んでしまう。しかしすぐにあの泣き顔が浮かんで、なんとも言えない気持ちになった。二度と、あんな顔をさせたくはない。

泣かせぬよう、強くなろう。痛む肩を押さえて、強く、強く誓った、思い出の春の日のことだった。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -