血に塗れながらそれでも歩みを止めず、臆することも退くこともせず、ただ敵将を見据え戦場を駆ける姿を見て、それを『鬼小僧』と呼び始めたのは誰だったのだろうか。初陣を終えて間も無いのと小柄だった為に『小僧』という名がついた。しかしその人間離れした強さと雄々しさ、凄まじい程の迫力を放ち、幾つもの首を討ち取って行く姿を見て、人々は恐れた。小僧なんて可愛いものではない、もっとおぞましいものだと。しばらくしてから、次は『鬼武者』と呼ばれるようになった。それはとても似合っているように思えたし、本人も気に入っていた。しかしある日の戦で兜が外れ、顔があらわになり、その身が女だとわかると、呼び名はまた変わることになった。

ひとは畏怖の念を込めて、彼女を『鬼御前』と呼ぶ。










「わ、悪かったよねね、もうしないから。だから泣き止んでくれないかなあ?」

「わっ、わたし、わたしは、なまえ様に恨まれることを、し、してしまった、のでしょうか…っ」

「そ、そんなことない!私はねねが大好きだ!」

「じゃあ、どうしてこんな…っ!ひっひどいです…ひどいですううぅ…!」

「あああああ泣くな!泣かないでくれごめんってば!」


自分よりも年下の女中に頭を下げ、あわあわと慌てふためく姿はとても『鬼』には見えない。ふたりにはバレないようこっそり吹き出した。

少し前のことである。なまえ専属の女中のねねがなまえの為にと饅頭を持って来たのだ。なまえは喜んでくれるだろうかと胸を踊らせて、にこにこ笑いながら廊下を歩いていた。その様子を、なまえは後ろから見付けてしまった。何やらゴキゲンな様子についイタズラ心をくすぐられたなまえは音も無くねねに近付き、必要以上に大きな大きな声で「わッ!」と。そんなことにはちっとも気付かなかったねねはなまえよりも大きな声で叫び、猫のように飛び上がった。その時手に持っていた盆、更に言えばその上に載っていた饅頭は庭に転がり落ちてしまったのだった。尻餅をついてしまってすごく痛いし、後ろを振り向けば主人は大笑いしているし、何よりせっかくの饅頭が砂まみれ。ねねは尻餅をついたままぷるぷると震え出し、そしてとうとう泣き出してしまったのである。なまえはひとを驚かせたりするのは好きだが、泣かせてしまうのは大の苦手であった。そしてここで冒頭に戻るのだ。なまえはねねと向かい合わせに座り、目線を合わせた。ねねはすんすんと鼻を鳴らしているものの、少し落ち着いたようでもう涙は流していなかった。


「ねね、本当にごめんよ。饅頭は今すぐ私が買って来る。だから泣かないでおくれ」

「えっ?い、いいえ、お饅頭はいいのです」

「いいや買わせて欲しい。お前をここまで泣かせてしまったんだ、こうでもしないと私の気が済まない」


だから泣き止んでくれないか、となまえはねねの頬に残る涙を掌で拭った。ねねはぼうっとしていたが、すぐに我に返り、涙で濡れたであろうなまえの手を自分の着物の裾で拭いていた。


「お、恐れ多いですなまえ様!御手が汚れてしまいます!」

「む、何故だ?ねねの顔は綺麗なのに」

「きっ…あ、あの、お戯れを…!」


自分のような女中の涙を直接手で拭くなんて本当に恐れ多い、なまえの手が汚れてしまう、主人としてあるまじき行為だ。そういう意味だったのだろう、青ざめていたねねだったが、突然言われた「綺麗」という言葉に今度は頬を赤らめた。なまえはいつもそう。恥ずかしくて普通は言えないような台詞をさらりと言ってのける。今日も素敵な笑顔だな、だとか、お前の髪は本当に美しいな、だとか、そういうの。しかも言葉にいやらしさはなく純粋な気持ちで言っているのが分かるから、言われるほうも心地よいらしい。なまえがこの城の女中にとても、それはもうとても人気があるのを本人は知っているだろうか。なまえはねねの言葉を無視して再び涙を拭う。ねねは困惑しているのか目をゆらゆらと泳がせていた。それを見て、なまえは少し笑った。


「部屋で待っててくれ。饅頭を買って来る」

「あっ、お、お待ちくださいなまえ様、お饅頭は」

「つぶあんとこしあんはどっちがいい?」

「お饅頭はいいですから!」

「そうはいかない。どんなに止められたって私は行く」


立ち上がろうとするなまえを、ねねは縋り付くようにして引き止めた。だがなまえはねねを片腕で支え、そのまま一緒に立ち上がる。普段から鍛えているなまえにとってねねを支えるくらい容易いことだ。ねねもそれを分かっている。分かっているから、必死になって止めているのだ。主人に甘味を買わせる女中などこの世の何処にもいない。そんな失礼をさせてしまう訳にはいかないと、また泣きそうになっていた。歩き出そうとするなまえの裾を一生懸命引っ張る。だがなまえは気にせず、ねねごと歩き出した。


「待って、待ってくださいなまえ様!本当にいいのです!」

「じゃあねねも一緒に行くか?」

「あのお饅頭は元々なまえ様に差し上げようと思ってたんです!」

「……え?」


無理矢理歩いていたなまえがぴたりと足を止め、ねねを見下ろした。ねねは涙目になりながら未だに裾を引っ張っている。けれど目は、しっかりとなまえを見つめていた。


「せ、先輩からふたつ頂いたんです。とても美味しかったから、ひとつはなまえ様に召し上がって頂きたいと思って、それでわたし…」

「なっ…なんでそれをはやく言わないんだ!」

「ご、ごめんなさい…っ」

「なーんだ。私はてっきり、お前の饅頭を駄目にしてしまったのだと思ったよ」

「…え、えっ!なまえ様!?」


なまえは踵を返し、裸足のまま庭先に降りた。ねねはついて行こうとして、でも裸足では降りられないと諦めたのか降りるギリギリのところでなまえを見つめている。普段から地面でも何処でも裸足で歩いてしまうなまえにとってはなんてことはないのである。なまえは落ちて砂まみれになった饅頭を拾いあげた。周りについた砂を軽く手で払っている。まさか、と思った。ねねもきっと私と同じことを考えているのだろう、目と口が大きく開かれていく。駄目、とねねが叫ぶよりなまえのほうがはやい。

あろうことかなまえは、砂まみれになった饅頭に齧り付いたのだ。

リスのように頬いっぱいに饅頭を詰め込んだなまえはこちらに聞こえてきそうなほど大きくもぐもぐと咀嚼して、ごっくんと飲み込んで見せた。そして目をキラキラと輝かせてねねを見つめた。


「美味い!なんて美味い饅頭だ!」

「なっ…な、なんてことを!いけませんなまえ様、はやく吐き出してください!お腹を壊してしまいます!」

「こんな美味い饅頭で腹が壊れるもんか。あー美味い、甘味は身に染みるなあ」

「お、お茶を…いえ、お薬を持って来ます!お待ちくださいませ!」

「ねね」


走り出そうとするねねは、静かに呼ばれた声に足を止めた。見れば主人は少し頬を赤らめて、それはそれは嬉しそうに笑っている。砂まみれの饅頭を食べて何故そんな顔が出来るのかねねは本当に分からなかった。そんなものを食べなくても新しいものを用意するのに。なまえは主人で、そんなものを食べていい人間ではないのだ。ねねの心配を他所に、なまえは最後の一口になった饅頭を口に放り込んで、ニッと笑って見せた。


「ありがとう。すごく美味しかった」

「……」

「稽古後でな、甘いものが食べたいと、本当に思っていたんだ」

「…ちゃ、ちゃんとしたものを、用意しますのに…」

「お前が私にと持って来てくれたこの饅頭が食べたかった」


なまえはねねの隣へ戻ると、ねねの頭をぽんと撫でた。いつだったかなまえはねねを妹のようだと言っていたのを思い出す。なまえにとってねねはきっと、可愛くて堪らない存在なのだろう。ねねは大きな目を更に大きく見開く。瞳が揺れて潤むと、ねねはまた涙を流した。今度は慌てる風もなく、なまえは優しく微笑んだ。


「甘いものを食べると熱いお茶が飲みたくなるな。一緒にどうだ?」

「は、はい…ご用意致します…っ」

「そんな顔で厨に行けばひとに笑われてしまう。だから頼まれてくれないか、長次」


あ、と思った。バレていたのか。屋根裏の板を一枚ずらして顔だけを出す。なまえはこちらを見て笑っていたがねねは声にもならないほど驚いているようだった。隠れるのは得意だし自信もあるのだが、なまえには時々こうして見つかってしまう。最初こそ悔しく思ったけれどなまえの野性的なカンを思えば忍を見つけるのも容易いのかも知れない。お茶をふたつか、と口だけで言えばなまえは頷いた。ねねより私のほうが女中らしいことをしてるような気もする、なんて思ったけれど口にはしないでおこう。そのままなまえの後ろに降り、厨へと向かった。

ふと庭先に目をやると、梅の木に幾つか蕾を見付けた。嗚呼、もうすぐ春が来る。この心優しい主人に似た、あたたかい春が来るのだ。

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