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「………」
揺れる視界。葉っぱが落ちきった木が並び、石段には雪が積もっている。見慣れた景色に、ああ地獄の1080階段か、と思った。頬に当たる逞しい肩甲骨に目を閉じる。誰の背中だろう、なんて考えない。だらしなく垂れ下がっていた手をそろそろと動かして緩く首にしがみつくと、ぴたりと動きが止まった。
「…起きたのか」
「…うん」
「具合は」
「まだ気持ち悪い」
「そのままくたばれ」
「お前がくたばれ」
ケッ、と洩らしながら、阿含は再び足を動かし始めた。なんか、阿含におんぶされるのって初めてかも。目を閉じて、私は身体の力を抜いた。なんとなくだけど覚えてる。あれから立てなくなって、阿含とタクシーに乗って、眠っちゃったんだ。いつ降りたのかは覚えてない。今朝から見てなかったけどちゃんと試合を観に来てたんだ、阿含。阿含も気になったんだろうな。阿含の白いダウンジャケットは冷たかったけど、それでも心地好かった。
「…私、あの天間って人、嫌い」
ぽつり、呟いた声は白くなった。何故だかこぼれた言葉は思いの外自分を苛立たせる。嫌い、キライ。大嫌い。大体帝黒のやり方も好きじゃない。引き抜きなんかしなくて自分のチームだけで闘えばいいのに。
「…俺もだ」
「だよねえ…神龍寺を辞めるとか有り得ないもん…」
「…それは俺もか」
「…んー…?」
「神龍寺を辞めようとした俺も、有り得ねえのか」
聞こえてきた声に目を開いた。阿含はこっちを向くこともなく、ただ真っ直ぐ歩いている。
有り得ない、って。本音はそう叫んでるのに、言葉に出来なかった。悪くないやり方なんざ、急に言われて理解しろっつう方が、難しいもんだ。葉柱くんの言葉とあの悲しげな顔が浮かぶ。私は何て言えばいいんだろう。何て言えば、正しいんだろう。あんなに馬鹿だのむかつくだの信じられないだの言っておきながらこうして目の前にすると、傷付けたくないと思ってしまった。阿含は今どんな気持ちでこんなことを訊いてるんだろう。こんなに近くにいるのに、阿含の考えていることを読み取ることが出来ない。
「お前がなんで泣いたのか、考えた。…考えてみても、分からなかった」
「……」
「ただ、無性に腹が立った」
阿含の声から力が抜ける。なんだか怖くなって、阿含の首に強くしがみついた。阿含の身体が一瞬だけ揺れた気がした。阿含が唾を飲み込むのが分かる。言い様の無い緊張感に、声が出なくなった。
「…だから、ごめん」
────私の世界から色が、音が、全部が、消える。しばらくしてそれはじわじわと元通りになったけど、私は耳を疑った。阿含は今、何て言ったんだろう。私は結構長く阿含の傍にいたけど、阿含から「ごめん」と言われたのは初めてだった。誰を殴っても誰を蹴っても女遊びしても練習サボっても自分は悪くない、って思ってて、ただの一度も謝ったことのない阿含が、私にごめんって。
何も分かってないんだ。私がなんで泣いたかさえも、分かってないんだ。だから無性に腹が立って、それでも自分がいけないことをしたんだって認めたんだ。それってすごいことだと思う。あの阿含が謝るなんて、それこそ有り得ないと思ってた。失礼かな。でも、だって、あの阿含が。目頭がじんわりと熱くなる。誤魔化すように阿含の肩甲骨に顔を押し付けた。力一杯阿含に抱き着いた。身体が震えるのは寒いだけじゃないって、自分でも分かってる。
「…歩きにくい、力抜け」
「阿含好き」
「……」
「大好き」
「…あ゙ー」
「ありがと」
「意味分かんねえよブス」
「好き」
「うぜえ」
阿含は突然後頭部で頭突きをしてきた。油断していた私は突然の脳天への衝撃に思い切り舌を噛んだ。なんだよ、素直な気持ちを伝えただけなのに。滅多に見れない私のデレだぞ。だけど、不意に気付く。ドレッドから見えた耳が真っ赤で、私が動揺してしまった。
なんか悔しいからドレッドを引っ張ってやった。
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