2/2
午後の練習を集中出来ないまま見守って、終わって、寮に戻る。この時私はどうやって部屋に戻ったのか覚えていない。雲水に力を借りたのか自力で戻ったのか分からないけど、気が付いたら部屋にいた。壁を背もたれにして座り込む。自分の膝を抱えて顔を伏せた。夜ご飯は、食べれなかった。食べる気にもならなかった。阿含の電話が気になって気になって、他のことが考えられなかった。
女の人の声がした。それは、前なら当然のことだった。前なら。私と付き合う、前なら。だって奴は女大好きの遊び人だから。でも今は私という彼女がいるから大丈夫だと思っていた。なんとなく自信があった。なのに、これはどういうことなの。奥歯を強く噛み締める。口の中に血の味が広がった。
────浮気、なのかな。
「何してんだ」
どれくらいそうしていたんだろう。突然声がして、真っ暗だった部屋に電気が着いた。眩しさに目を細めながら顔を上げれば、そこには二週間とちょっと振りの彼氏がいる。時計は21時を少し過ぎたところを指していた。もうそんな時間だったんだ。阿含は眉間に皺を寄せて私の前を横切り、ジャケットを脱いでハンガーに掛けた。いつもと同じだ。変わらない。でも、あの声は?確かに聞こえたあの女の人の声は、なんだったの?ここで私が知らないフリをすれば関係が崩れることはないのだろうか。阿含の背中をじっと見つめる。阿含はリモコンを手にしてテレビを着けようとしているところだった。
「…阿含」
「あ?」
「昼、電話した時…女の人と、いた?」
知らないフリなんて出来ない。こんな不安定な気持ちのまま阿含と付き合うなんて絶対嫌だ。私は単刀直入に訊いた。阿含はリモコンを持ったままくるりと振り返る。しばらく視線を合わせて、阿含がゆっくり立ち上がった。一歩一歩近付いてくる阿含がまるで別人みたいで、なんだか怖かった。私の前でどかっと胡座を掻く。リモコンを軽く振って私の頭をコツッと小突いた。リモコンで小突かれるのはなかなか痛かったけど反応は返せなかった。それくらい、今の私に余裕は無かった。
「疑ってんのか」
「…違う、けど…」
「…テメェの思ってることは何ひとつしてねえ。金がねえからタクシー変わりに使っただけだ」
「…え?」
「浮気はしてねえ。何もしてねえ。…これで満足か」
私の目をまっすぐ見てそう言った阿含は、嘘をついてるようには見えなかった。阿含がまたリモコンで頭を小突く。小突かれた頭を押さえて、はーっと息を吐き出した。なんだ、そっか。そうだったのか。よかった…。疑って悪かったな。阿含はその場でテレビの方を向いて横になった。ブウンとテレビに電源が入る。阿含の肩を掴んで、少し揺さぶった。
「阿含、ごめんね」
「気にしてねえよカス」
「ありがと」
「…うるせえ」
「タクシー変わりにしたって、何処行ってたの?寝ないで待ってろって言ったし何か話があったんじゃないの?」
私はてっきり「テメェの数倍いい女見付けたから別れろ」的なことを言われるんだと思っていた。でもどうやら違うらしい。阿含はサングラスを外してテーブルに置いた。
「帝黒に行ってた」
「帝黒?なんで?」
「引き抜かれに行ってたんだよ。さっさとあのチビカスを潰してやりたくてよ」
「…え」
「帝黒に入って次の試合で殺してやろうと思ってな。その時はテメェも帝黒に入れっつう話をするつもりだったが、気が変わった。帝黒には面白え奴が」
「何、言ってるの?」
「…あ゙ー?」
阿含の言うチビカスってのはきっとセナのことだ。泥門戦でセナに潰されたから、阿含はそれを根に持ってるんだろう。────違う。私が今、息も出来ないくらい驚いたのは、そこじゃない。
阿含の肩を強く掴む。雰囲気が変わったことに気付いたのか阿含が身体を起こして振り返った。阿含は眉間に深い皺を刻んでいる。それもそうだろう、私が眉間に皺を刻んでいるんだから。なんでそんなテメェは顔をしてんだ。阿含はそんな顔をしていた。だっておかしいよ。おかしすぎるよそんなの。
「帝黒に入るって、神龍寺を辞めるってこと?」
「…だったら、なんだよ」
「っ、どうして!?」
「何が」
「どうして神龍寺を辞めるなんて、そんなことが出来るの!?神龍寺のみんなは仲間でしょう!?そんな裏切るみたいなこと、どうして!」
信じられなかった。何でもないことみたいに「帝黒に入る」なんて言う阿含が、本気で分からなかった。どうして。ずっとトレーニングしてたのはただ泥門を倒す為だったの?その為なら、味方は誰だってよかったの?なんでそんな、どうして。どうして。分からない。思わず声を荒げた私を阿含は鋭く睨む。チッと舌打ちをこぼした。
「裏切りだ?んな面倒臭いもん知るか。このチームじゃ何年経っても勝てねえ、俺ひとりいりゃあ何処のチームでも」
「違う、違う間違ってる」
「うぜえ、間違ってねえ」
「なんで?泥門戦で分からなかったの?なんで負けたのか分からないまま、ただトレーニングしてたの?」
「テメェいい加減に」
「チームワークがなきゃ、阿含はいつまで経っても強くなれない。なんでそれが、分からない、の」
「…分からねえよ、ブス」
語尾が弱くなる。震える。涙が、こぼれた。なんだかひどく情けなかった。なんだこいつ。ここまで分からず屋だったとは知らなかった。みんなが一生懸命『打倒・泥門』って頑張ってるのに、馬鹿みたいだ。こいつはみんなの頑張りを、全然分かっていなかった。それが悲しくて情けなくて、どうしようもなかった。
涙をごしごし拭きながら立ち上がる。阿含の方を見ないまま部屋を出た。阿含は、何も言わなかった。部屋を出ても宛は無い。でも、あの部屋には入られないと思った。ふと前に雲水が『思い切り喧嘩しても、それを乗り越えていけばその恋人は大丈夫』だと言っていたのを思い出した。これって喧嘩なのかな。
これを乗り越えた時、阿含は変わってるかな。口の中で小さく呟いた言葉は白くなって、冷たい廊下に滲んだ。
←