感じたのは絶望じゃなくて、安心。
夕暮れ時。店の暖簾や旗を仕舞って、自分が座る為に長椅子だけを残した。オレンジ色の空を見上げてふうと息をつく。仙蔵さんの正体を知ってから一週間。今日は来てくれるかなと思ってたんだけど、来なかったな。まあ仕方無いか。仙蔵さんはお勉強があるもの。…じゃあわたしは、どうなんだろ。店の手伝いもピークを過ぎれば抜け出して構わないくらい暇になるわたしはどうなの。その間に忍術学園に行って文次郎さんと話をするくらいの時間は、あったはずなのに。
(わたし弱虫だ)
変わってしまうのが怖くて動けないでいる。それに、文次郎さんをお話をするには時間が開きすぎてしまった。今文次郎さんに会ったところで何を話したらいいんだろう。あんなひどいことをしてしまったわたしのことを、文次郎さんは受け入れてくれるだろうか。馬鹿みたい、わたし。文次郎さんの優しさに甘えるなんて悪い女だ。馬鹿みたい。馬鹿みたい。馬鹿みたい。ほんとうは会わなくちゃいけないって、分かってるくせに。
明日、明日こそ、行ってみようかな。忍術学園に。小さく芽生えた勇気を掻き消すように、ざりざりと足音が聞こえた。はっと顔を上げる。仙蔵さんだ。そう思ったわたしの目に映ったのは。
「…フミちゃん」
そこに立っていたのは、杖をついた、フミちゃんだった。フミちゃんはわたしと目を合わせるとすぐに逸らしてしまった。フミちゃんとこうして会うのはすごく久し振りな気がする。もう歩けるくらいに回復したんだ。よかった。そこまで考えてわたしは慌てて椅子から立ち上がった。いくら歩けるくらいに回復したとは言っても杖が必要なくらいだ。負担をかけるのはよくない。座って貰おう。知らず知らず笑ってフミちゃんの手をとった。
「まずは座ろう。でも、こんな時間にどうしたの?」
「…話が」
「話?うん、聞くね」
「話が、あるんだ」
「…うん?だから」
聞くね、ともう一度繰り返そうとして、フミちゃんの様子がおかしいことに気付いた。フミちゃんの眉間に深い皺が刻まれている。わたしはフミちゃんと会えて嬉しいけど、フミちゃんは違うのかな。顔を覗き込む。突然ばちりと重なった視線が、とても強かった。握った手をぐっと強く掴まれる。力が強くて少し痛かったけど口にはしなかった。フミちゃんの目を見ていたら、何故だか声が出なかった。わたしの手を掴んだままのフミちゃんの手が、ゆっくり、ゆっくり、持ち上がる。そのままそっと、自分の髪の一房を掴ませた。硬くてたっぷりとした髪の毛。指を通すと少しだけ絡まる。仙子さんとはまた違う髪質。────既視感。わたしは、この場面を見たことがある。正しく言えばこれに似た場面を、一週間前に経験した。
まさか。頭に浮かんだ『可能性』が、一瞬で現実味を帯びていく。
「フミちゃ」
「何も言わないでくれ」
名前は遮られた。フミちゃんは、なんだか泣きそうな声で言った。
「…私がいいと言うまで、目を閉じて欲しい」
「……」
「頼む。これが、最後だ」
「…うん」
断れない。わたしは言われるがまま目を閉じた。バサッと衣擦れの音がしたけど、わたしは思ったより冷静だった。既視感を感じたから?違う。わたしは頭のどこかで、確信してしまったのだ。緩く掴んだ髪が僅かに揺れてる。ううん違う。震えてるのはきっと、わたしの手の方。
目を開けてくれと言われて、わたしは目を開けた。なんとなく分かってはいたのに、やっぱり固まった。目に映ったのは袴。フミちゃんは袴なんか穿いてなかったのに、袴。漆塗り下駄も草履に変わっていた。どうして。どうしてだろう。悲しいのかな。よく分からない。混乱してしまってる。理解しきれない。視線を上げていけば、ぶつかる双つの光。確信がしっかりと形を作る。髪を掴んでいた手から力が抜けて、だらんと垂れ下がった。
「ど、して」
「……」
「…文次郎さん…」
フミちゃん────じゃなく、文次郎さんは、眉間に皺を刻んだまま、だけどわたしをまっすぐ見つめた。フミちゃんは、いなかったんだ、最初から。立花仙蔵の仮の姿である『仙子』がそうであるように、潮江文次郎の仮の姿である『フミ』は、あくまで仮の姿でしかない。そんな人間は、最初から存在していなかった。初めて出来た友達だとはしゃいだ彼女は、初めてわたしに贈り物をしてくれた彼女は、わたしにたくさんのものを与えてくれた彼女は、もう何処にも居やしないのだ。
「弁解の余地を、下さい」
呆然とするわたしに、文次郎さんははっきりと告げた。弁解?一体何のことだろう。胸の中がひどく空っぽだった。悲しい訳じゃない。怒ってる訳じゃない。むしろなんだか、すっきりしたような、変な解放感があった。
「初めてあなたと会った時、私は女装の訓練中でした。授業が終わり何か食べないかと仙蔵に誘われ立ち寄ったのが、この店でした」
ああそう言えば、確かにそうだった。仙子さんとふたりで来てくれたんだ。フミちゃんのインパクトが強くてよく覚えてる。そっか。やっぱりあんないかつい女の子は、元からいなかったんだ。思わず目を閉じた。睫毛が震える。瞼裏に浮かんだものは曖昧でぐちゃぐちゃしていて判断出来ない。分からない。袖の中で握り締めた手の感覚が無くなっていた。
「その時あなたに、惹かれたのです」
「…え」
「…ただあなたに会いたいと思うようになり…しかし、私が外を出歩くとなれば不思議がった友人達が付いてきて…女装をして、訓練だと嘘をついて、ここへ通うようになりました」
ぱっと瞼を上げて、息を詰まらせた。文次郎さんの顔が、赤くなっていた。
「あなたに『フミ』と名乗って『友』として通っているのは…正直、楽しかった。あなたと話をするだけで私は本当に…だけど、いつしかそれでは、駄目になってしまった。私は、あなたが」
「……」
「…騙して、本当に申し訳ありません」
「…文次郎さん」
「申し訳ありません」
もう一度同じことを繰り返して、文次郎さんは深々と頭を下げた。結わないままの髪が風にさらさらと揺れている。文次郎さんだ。当たり前のことを頭の中で呟いた。このひとはフミちゃんじゃない。よく考えれば分かることだったんじゃないんだろうか。だけど今となっては遅い。文次郎さんの後頭部をじっと見つめた。文次郎さんは前、言っていた。自分は口下手だって。それは文次郎さんがとても真面目なひとだからだろう。そんな真面目なひとが嘘をついてまで、わたしに会いたいと思ってくれていたのだろうか。決して上手とは言えないような女装をしてまで、わたしと話をしたいと思ってくれていたのかな。
悲しい訳じゃない。怒ってる訳じゃない。身体の力が抜けてしまうような、不思議な感覚だった。
「頭を上げてくださいな」
「…し、しかし」
「わたしも文次郎さんに謝らなきゃいけませんから」
「…それは、仙蔵から聞きました」
「え?」
「聞いた上で、私は、ここへ来ました」
仙蔵さんから聞いた?何を?もしかして、わたしが文次郎さんを拒絶した理由を?文次郎さんはそれを知ってたの?それなのに、わざわざここへ来たの?混乱してばかりの頭はもうパンクしそうだった。文次郎さんがゆっくり顔を上げる。顔が真っ赤だったのに、目だけは強い力を持っていた。文次郎さんに告白された瞬間が鮮明にフラッシュバックする。あの時と同じ顔だと、思った。
夕暮れ時の空は少しずつ藍色になり、いつの間にか星が輝いていた。