何もかもがひっくり返ってしまったような、例えるならそんな衝撃だった。

忍術学園から遠ざかって三週間目の夕方。わたしはなんとなく店の前に出てぼんやりと道を眺めていた。道を眺めて、溜め息。フミちゃん、元気にしてるかなあ。足の様子はどうなんだろう。文次郎さんと会わなくなった今、全然連絡が取れない。…文次郎さんはどうしているんだろう、なんて。それをわたしが考えるのはおかしいかな。でも文次郎さんも足を折っていたし…包帯はちゃんと自分で巻けているのかな。どうなんだろ。自分の手に視線を落とす。手の中には、前にフミちゃんがくれた鼈甲の櫛があった。初めて友達から貰ったもの。わたしの宝物。これを見る度なんだか悲しくなる。わたしは自分に正直に答えたはずなのに、どうして、後悔してしまってるんだろう。

フミちゃんにも会えない。文次郎さんとお話も出来ない。ふたりと出会う前は何でもなかった毎日が、今はひどく辛い。


「…フミちゃん…」

「こんばんは」

「ひゃわっ!」


突然、ほんっとうに突然後ろから声がした。こんな時間に、しかも後ろに誰かいるなんて思わなかったからかなりびっくりして変な声が出てしまった。慌てて振り返れば、そこには市女笠を被った女のひと────仙子さんがいた。い、いつの間に。全然気付かなかった。なんか、前にもこんなことなかったっけ。仙子さんはわたしの驚き方がそんなに面白かったのか袖で口元を隠してくすくすと軽やかに笑っている。


「せっ…仙子さん、こんな時間にどうしたの?」

「これを返しに来ましたの」


そう言って差し出されたのはウチのお皿とお盆。そう言えば前に大福ごと持っていったままだったっけ。あれはちゃんとフミちゃんの手に渡ったんだろうか。…そうだ。フミちゃんと仲良しの仙子さんなら、フミちゃんのこと分かるよね。わたしは受け取ったお皿とお盆を適当なところへ置いて仙子さんと向き合った。仙子さんは艶やかな髪を揺らしてわたしの隣へ並ぶと、思わずどきっとしてしまうくらい綺麗に微笑んだ。いつ見てもほんとうに綺麗なひと。紅をのせた唇がまるで果物みたい。


「仙子さん、フミちゃんの足の様子は?フミちゃんは元気なの?」

「大丈夫ですよ。足の方は最近リハビリを始めて、頑張り次第では走れるようになるのもすぐだってお医者様が」

「ほんと?よかった…」

「そんなことより、なまえさん」

「はい?」

「面白いものを見せてあげるわ」


綺麗に微笑んだ仙子さんはわたしの手を取ると、何故だか自分の髪の一房を掴ませた。艶やかで滑らかな髪。全然指に絡まない。絹糸みたいだ。でも、一体何の意味があるんだろ。仙子さんは微笑んだまま。ほんとうに楽しそうな顔だった。


「そのまま目を閉じて欲しいの」

「目を?」

「心の中で十秒数えたら目を開けていいわ。ただしどんな音がしても十秒数えないと開けては駄目よ」

「う、うん。分かった」

「それじゃあ、目を閉じて」


なんだか逆らえない威圧感に何も言い返すことが出来ず、言われた通り目を閉じる。閉じた瞬間バサッと衣擦れの音がしてびっくりしたけど目は開けなかった。緩く掴んだ髪が僅かに揺れてる気がする。一体何が起きてるんだろう。予想すら出来ない。面白いものってなんだろう?

心の中でたっぷり十秒数えて、わたしはゆっくり目を開けた。開けて、固まった。まず目に映ったのは浅縹の袴。だけど、そんなのおかしい。仙子さんは袴なんか穿いてなかった。薄い藤色の小袖だったはず。漆塗りの下駄も草履に変わっていた。なに、なにこれ、どうして、どうしたの。バッと顔を上げる。わたしは、驚愕した。


「…面白かったでしょう?」


そう笑うが、低い。目の前にいたのは仙子さん────ではなく、なんと、仙蔵さん、だったのだ。そんな馬鹿な話があるもんかと思ったけどわたしが掴んだ髪はそのまま。カツラとかじゃなくて確実に仙蔵さんの頭から生えたそれを、わたしはしっかり掴んでいた。さっきまでは仙子さんだった髪の毛を、今は仙蔵さんのものとして掴んでいる。これはつまり、なんだろう。そりゃあ確かに仙子さんと仙蔵さんってすごく似ていたけど、でも…一体何がどういうこと…?掴んでいた手がだらんと垂れ下がる。混乱状態に陥ったわたしを仙蔵さんは容赦無く笑った。


「予想以上に驚いていただき光栄です」

「…え、と…あれ?仙子さんは…?」

「いませんよ。仙子などという者は始めから存在しない」

「でも今、目の前に…何がどうなって…」

「『仙子』というのは『立花仙蔵』の仮の姿。つまり、女装した私なのです」

「じょそう…?」

「…やはり、奴はこの話をしていないのですね」


まあ出来るはずもないか、とぽつり呟いて、仙蔵さんは長い髪を掻き上げた。懐から結い紐を出して手慣れた手付きで髪を結ぶ。その様子をまじまじと見つめて、やっぱり仙蔵さんだと思った。だって胸がないし、声も低い。確かに女のひとみたく綺麗だと思ったけど…まさかあんな完璧な女性になるなんて。着ていた小袖とか何処行っちゃったんだろ。夢を見てるみたいだ。


「忍者は敵の目を欺く為に変装を必要とする場合があります」

「え」

「種類は様々。農民や貴族、時には…町娘になることも」


突然始まったそれに呆気に取られながらも『町娘』という言葉に目を丸くした。そ、そっか。じゃあ仙蔵さんが『仙子さん』になるのは、そういった変装の訓練だったんだ。男のひとなのにわたしより化粧が上手だなんて悔しい気もする。さっきまでは紅かった唇をじっと見つめた。


「まだ疑わしいのなら化粧をしましょうか。今度は目を開けたままで結構ですよ」

「いいえ…うん。大丈夫。把握出来ました」

「それは何より」

「仙蔵さんと仙子さんってそっくりだもの。嘘みたいだけど…納得しました」

「分かりましたか?忍者の変装の凄さが」

「うん。すごく」

「では、文次郎のことも分かってはやれませんか?」

「…え?」


仙蔵さんはどこか困ったような顔をしていた。わたしはと言えば突然出てきた名前に内心びくりと驚いていた。今の話の流れで、どうして文次郎さんが出てきたの。


「あなたは忍者をいつ死ぬか分からないと言いましたが、それはあなたも同じです」

「…同じ?」

「もしかすると明日馬に蹴られて死んでしまうかも知れない。急な病で死んでしまうかも知れない。違いますか?」

「そ、そんなの、分からないよ」

「そう、分からない。私もあなたも、人は誰だって生死の瞬間を把握することなど出来ないのですよ」

「!」


目玉がこぼれ落ちてしまうくらい、目を見開いた。頭のてっぺんから雷が落ちたような衝撃が身体をまっすぐ貫く。────そうだ。誰だっていつ死ぬか分からない。父ちゃんと母ちゃんだって死なないと思ってた。ずっと一緒に暮らしてくんだって思ってた。婆ちゃんもそう。ずっと一緒だと、思ってた。だけど、どうだ。みんな死んでしまったじゃないか。未来なんか分からない。誰も未来を視れないんだ、分かる訳ない。仙蔵さんの言う通りわたしは明日死んでしまうかも知れないし、死にはしなくても大怪我をするかも知れない。でもやっぱりそれは『分からない』。

分からないから、生きているのだ。


「忍者は人の目を欺き生き延びる術を得ています。それに…癪ですが、奴は強い。きっと簡単に死んだりしません」

「…わたし、文次郎さんに謝らなきゃ…」

「それなら謝るのは私の方です。部外者がしゃしゃり出てしまい申し訳無い」

「そんなこと!仙蔵さんが気付かせてくれなかったらわたし…」

「はは、謝るのはもうひとりいますがね。いやもうふたりか」

「?」

「お気になさらず。…最後にひとつよろしいですか」


どうぞ、と言う前に仙蔵さんは言葉を紡いだ。いつか『仙子さん』の姿で見せた、あの妖艶な笑みを浮かべていた。


「なまえさんは、文次郎がお好きですか?」


握り締めたままだった鼈甲の櫛が、きりりと鳴いた。
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