日常が変わった。それは勿論、悪い方向に。
「なまえ、本当に行かないのかい?」
「うん」
「先週も行かなかったろう。文次郎くんと喧嘩でもしたのかい?」
「そんなんじゃないよ。ちょっと、具合が悪いの」
「そうか…それなら仕方ないのう」
忍術学園へと向かう爺ちゃんを送り出してわたしは店の旗を仕舞った。今日はもうおしまい。片付けなきゃ。長椅子も店の中へ入れて手を洗う。ふとなんとなく水面をじっと見つめた。ゆらゆら波紋が広がる。揺れる。そこにうっすら映る自分の顔がなんだか泣き出しそうに見えて、バシャッと水面を叩いた。違う。泣きたい訳じゃない。だって、わたしが泣くのはおかしい。爺ちゃんの言葉を思い出す。喧嘩をしただけだった方がずっとマシだと思った。
「あなたが、好きです」
まさかそんなことを言われるなんて思ってもみなかった。わたしは文次郎さんを特別視したことは無く本当にただのお茶飲み友達くらいにしか思ってなかった。いや、お茶飲み友達よりは、もっと砕けた関係だったのかも知れない。包帯を替えてあげたりお話をしたりする、そんな他愛のない時間が、わたしは好きだった。文次郎さんのことだって勿論、好きだった。だって文次郎さんのお話は面白いし楽しいし、嫌いになんかなれない。わたしは文次郎さんが好き。だけど、意味が違う。文次郎さんの『好き』とわたしの『好き』は空と地面くらいの大きな違いがある。ただ、それだけだ。
(…それだけ?)
それだけ、だったっけ。二週間前のあの瞬間を思い出す。わたしを真っ直ぐ見つめてきた目。震えていたけどはっきりした声。わたしとは全然違う身体付き。それから、折れた右足。記憶を辿っただけなのに背筋に冷たい汗が流れたみたいだった。ああやっぱり、駄目。怖い。わたしはあのひとの気持ちを受け留められない。目をぎゅっと閉じる。言い様のない不安が胸に渦巻く。ずっと考えていたけど無理だ。ほんとうに無理。だけど、どうしようもなく辛いのも真実。
わたし、どうしたらいいんだろ。目を閉じたまま溜め息を吐き出した時、店の入口から人の声がした。誰か来たのかな。旗は仕舞ったのに。申し訳ないけど帰って頂こう。深呼吸をしてから入口へ向かった。入口の戸は既に開いていて誰かがこちらを覗き込んでいる。その『誰か』を理解して、息を詰まらせた。
「こんにちは」
「…立花さ、ん」
「仙蔵で結構ですよ。…少しお話がしたいのですが」
唇を柔らかく緩めてわたしの様子を伺う立花────仙蔵さんに、わたしは小さく頷いた。わたしは仙蔵さんを前に一度だけ見たことがある。あれは確かわたしが初めて文次郎さんのお部屋を訪ねた時だった。この世のものとは思えないほど綺麗な彼は、強く印象に残っていた。どうぞとわたしは自分の部屋へ向かう。思えば男のひとを部屋へあげるのは初めてだったけど特別何とも思わなかった。思う余裕がなかった。仙蔵さんを部屋へ招いて座布団に座って貰う。お茶を淹れてこようとしたら「待ってください」と呼び止められてどくんと心臓が跳ねた。
「お構い無く。どうぞ座られてください」
「…はい」
「私が何故来たのか、気付いておいでですか?」
「…いいえ」
「では単刀直入に」
仙蔵さんの正面に腰を落ち着かせる。そんなつもりは無いのにしかめっ面になってしまって困った。まるで仙蔵さんを睨んでるみたい。わたし、失礼だ。仙蔵さんは唇を緩めたままわたしを映している。
「なまえさんは、文次郎に告白された。そしてそれを断った。違いますか?」
「…そう、です」
「何故ですか?」
空気がぴり、と火花を散らせた気がした。膝の上で握り締めた手が痛い。仙蔵さんは文次郎さんと同室のひと。きっととても仲良しなんだ。だから、今回のことを知ってるんだろう。きっとわたしのことを怒ってる。友人の気持ちを踏みにじった最低な女だって思ってるんだろう。どんなに蔑まれたって何も言い返せない。だってその通りだもの。
「顔が好みでないと?」
「ち、がいます。顔は…関係無いです」
「では性格が?」
「まさか…文次郎さん、あんなに優しいのに」
「…なまえさん。納得のいく理由を仰ってくださらなくては、私は帰れません」
「……」
「口下手な奴があなたに想いを伝えるのにどれだけの気力を使ったと思いますか?それなのにあなたは理由も言わず部屋を出て行き、学園へ来なくなった」
「…ごめんなさ」
「謝罪が聞きたいのではないのですよ」
仙蔵さんは唇を緩めたままだった。だけど、目は笑っていなかった。ただわたしを映しているだけ、だった。なんて冷たい目をするひとだろう。わたしはそれほど非道いことをしてしまったのだ。怖くて怖くて、どうしても耐え切れなくて、俯いた。それでも後頭部に痛いくらいの視線を感じる。逃げられない。ううん、逃げるつもりなんかない。だって逃げるところなんか、ないじゃない。深呼吸をひとつこぼす。ゆっくり顔を上げて、仙蔵さんを真っ直ぐ見据えた。
「小さい頃、コロリで両親を亡くしました。それからは爺ちゃんと婆ちゃんと暮らして来ましたけど、婆ちゃんも流行り病で亡くなりました」
「……」
「だから、怖いんです」
「…怖い?」
「…文次郎さんは、いつか、忍者になるひと。わたしとは違って、危ない世界で生きていくでしょう?」
文次郎さんが話してくれていたことを頭に浮かべる。実習と称して戦を見に行ったり敵対してる城に忍び込んだり、そして訓練中に足の骨を折ったり。わたしには何一つ想像も出来なくて、とても遠くに感じた。わたしとは住む世界が違う。文次郎さんは忍者で、わたしただの田舎娘。文次郎さんは、忍者。
「そんなひととは…いつ死ぬか分からないようなひととは、お付き合い出来ません」
「……」
「わたしは残される側の気持ちを嫌ってくらい知っています。だから…駄目です。独りになるのが、わたしは怖いから」
「…そうでしたか」
静かに吐き出した仙蔵さんの声は、柔らか。棘は感じられなかった。少しほっとする。正直な気持ちを話したのだ。これで逆上されたらどうしようかと思った。仙蔵さんが立ち上がって、わたしもつられるように立ち上がる。外へと向かう背中へついて行くと敷居を跨いだところで彼は立ち止まった。
「どうか奴を恨んでやらないで欲しい。私がここへ来たのは私の独断で、何故奴があなたに告白したことを知っているのかと言えばそれは私が無理矢理聞き出したからです」
「え?」
「それだけ様子がおかしかったので。ああ、あなたが気にすることではありません。嫌味ではなくね」
「あ、あの」
「また来ます」
「あ!あの!」
わたしの呼び掛けに答えることも無く仙蔵さんはピシッと戸を閉めた。もう、待ってくださったらいいのに!苛立ちと一緒に戸を開け放った。
そこには人の通った跡すら無くて、わたしはただその場にへなへなと座り込むしかなかった。