その日はとても静かだった。

お昼が過ぎてお八つ時が過ぎて夕方になった。空に蜜柑色が広がっていく。冷たい風が髪を揺らした。長椅子に座って空を見つめる。膝に載せたお茶も塩豆大福もすっかり冷えてしまった。なんでだろ。なんで。フミちゃんが、来ない。

この前文次郎さんに会って色々お話したからフミちゃんにも話したいことたくさんあったのに。文次郎さんに渡して貰おうと思って余分に大福作って包んでいたのに。どうしたんだろう?風邪引いちゃったかな。稽古中に怪我をしてしまったとか。お見舞いに行きたいな。ああでもわたし、フミちゃん家を知らない。フミちゃん、フミちゃん、フミちゃん。会いたいよ。店の中から爺ちゃんが顔を出した。わたしを見て、しわくちゃの顔を更にしわくちゃにさせて笑う。


「なまえ、部屋に入らんと風邪を引くよ」

「……」

「おフミちゃんならきっとまた来る」

「…うん」


フミちゃんにだって都合がある。きっと何かあったんだ。でも、フミちゃんは普段稽古や礼儀作法とかの習い事をしていてお休みの日にしか遊びに来れない。前にそう話して貰った。だから、もし会えるとしたら一週間先。一週間待たなきゃフミちゃんに会えない。それはすごく、寂しいこと。しょんぼりしたまま盆を持ち上げる。爺ちゃんは先に店に入って行った。その背中を追おうと踵を返した、瞬間だった。


「あの」

「ひっ!?」


突然後ろから声を掛けられて、慌てて振り返る。誰もいないと思っていたからほんとうにびっくりした。全然気付かなかったし、こんな時間に誰だろう?

その姿を視界に入れて、わたしはぱちぱちと瞬いた。


「…仙子さん?」

「こんばんわ」

「こんばんわ…こんな時間にどうしたの?」


急いでいたのか少しだけ息切れしてる。髪もちょっと乱れていたけど、それでも相変わらず仙子さんは綺麗だった。仙子さんはにこりと微笑む。今日は化粧してないみたい。


「おフミに頼まれましたの」

「え?…フミちゃん、フミちゃんがどうしたのっ?」


フミちゃんに頼まれた、ってなんだろう。フミちゃんはどうしちゃったんだろう。食い付くように一歩前に出る。仙子さんは目を丸くしてくすっと軽やかに笑った。


「おフミ、今日の稽古中に足の骨を折ってしまって」

「えぇっ!?」

「なまえさんのところへ行かなきゃと喚いていたのをお医者様に止められて、せめてこの旨を伝えてきて欲しいと頼まれたのです」

「骨…折れた、って…」


後半の仙子さんの話はよく聞こえていなかった。フミちゃん、足の骨が折れちゃったんだ。わたしは今まで骨折というものをしたことがない。でも、捻挫したり打撲したりならある。捻挫だけでもあんなに痛いんだもの。骨折なんて、きっともっと痛いはず。自分のことではないのに何故か両足がじんじんと痺れた。稽古ってどんな稽古をしたんだろう。そんなハードな稽古、毎日してるのかな。女の子なのに。大丈夫かな。痛いんだろうな。可哀想に。


「────なまえさん?」

「…え、あ、はい?」


気が付くと、仙子さんに顔を覗き込まれていた。仙子さんは背が高い。フミちゃん程ではないけど、でもわたしよりは一回り高い。わたしは何度か名前を呼ばれていたみたいだ。気付かなかった。ごめんなさい、と小さく謝ると仙子さんは首を横に振った。


「…そんなに青くならなくても大丈夫。綺麗に折れてるから治りも早いとお医者様が仰っておりました」

「…はい」

「なまえさんは本当、おフミが好きね」


くすくす、仙子さんは眉間に皺を寄せて笑った。わたしは素直にコクンと頷く。だって好きだもの。フミちゃんは大切な友達だから。持ったままの盆を強く握り締める。


「仙子さん、わたしお見舞いに行きたい」

「言うと思った」

「え」

「でも、駄目です」

「え!」

「なまえさん、あなた、おフミに騙されてるとしたらどうする?」


お見舞いをあっさり却下されて、すぐに質問をされた。その内容があんまりにも意味不明でわたしは固まってしまった。仙子さんは笑ったまま。だけど、違う。いつもみたいな木漏れ日のような温かい笑顔じゃない。鋭い三日月みたいな、妖しい微笑。なんだろう。何故だか鳥肌が立った。仙子さんは綺麗なひと。美しいという言葉がぴったりだ。美しくて、美し過ぎて、なんだかこわい。口の中がからりと乾いた。


「…騙され、てる…?」

「おフミがあなたに何か嘘をついてるとしたら?あなたが受け留められないような、大きなものを抱えていたら?」


ねぇ、どうする?

仙子さんの声が耳の奥でじんわりとエコーする。波紋が広がっていく。逃げられないんだって、なんとなく思った。ドウスル?どう、って。なにが。フミちゃんがわたしを騙してる?嘘をついてる?そんなの考えたこともなかった。

そう。そうよ。だってわたしは。


「フミちゃんを信じる」

「…信じる?」

「だってわたしは、フミちゃんの友達だもの」


フミちゃんがわたしを騙してるとしても、わたしはフミちゃんを信じる。嘘をつかれているとしても信じる。だって友達だもの。きっぱりはっきり、仙子さんの目を見つめて言った。仙子さんは少し吊り上がっている目を細めて、口角をくっと上げる。すっかり暗くなった空が今の仙子さんにひどく似合っていた。仙子さんは片手を伸ばしてわたしから盆を取った。てのひらに乗せて、もう片方の手で湯飲みを掴むとそのまま唇へ寄せて一気に飲み干す。空になった湯飲みをわたしへ差し出した。


「こちらは貰って行きます。きっとおフミが食べたがっているから」

「そ、それなら新しいものを…ちゃんと包むし」

「これがいいの。盆は返しにまた来ます」


差し出した湯飲みを受け取ると仙子さんはくるりと踵を返した。ちょっと待って、と言いかけて、店の中から名前を呼ばれた。爺ちゃんの声だ。いつまで経っても部屋に入って来ないから心配したんだろう。店に顔だけ突っ込んで返事をする。それからすぐに仙子さんに顔を戻した、ら。


「…あれ…?」


すぐそこにいたはずの仙子さんは何処にもいなくて、空にぽつりと一番星が光るだけだった。
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