「酷い目に遇った…」
「ふふ、お疲れ様です」
医務室の床にべにゃりと倒れ込む。リジィはデスクで書き物をしながら楽しそうに笑った。あーもー、死ぬかと思った。生乾きの前髪の隙間からベッドを睨み付ける。そこにはあたしを道連れにして海に飛び込んだあたしの恋人が、素知らぬ顔で眠っていた。
酔った勢いで海に飛び込んだマルコさんは海の中に落ちた途端あたしから手を離した。目が覚めたのかと思ったのは一瞬。マルコさんは浮力に逆らって底へ底へと沈んでいく。そこであたしはマルコさんが能力者だと思い出した。そうだ、マルコさんは泳げないんじゃないか。しかし突然落ちてしまった所為で呼吸が整わずあたしは慌てて海面へ顔を出した。胸いっぱいに酸素を吸い込んでもう一度海中へ潜る。海水が目に痛かったけどなんとか頑張って潜って潜ってマルコさんの手を掴んだ。だけど、それで限界だった。慣れないことをした所為で体力も力も無くなってしまったのだ。息が続かないやばい死ぬどうしようでもマルコさんのこと見捨てらんないしえええ、とかなんとかなって身動きが取れなくてもがいていた頃、飛び込んで来たサッチとハルタさんに助けられたのである。
「ほんともう死ぬかと思ったんだよ」
「なまえ、最後までマルコ隊長の手を離さなかったのですってね」
「……へ」
「死ぬような思いをしても離さないなんて、お熱いですこと」
「…リジィ意地悪」
「あら、拗ねないで下さいませ」
くすくす、と軽やかに笑うとリジィはデスクから離れた。ブーツをコツコツ鳴らしながらあたしへと近付いて来る。あたしの前で屈むと肩に掛かったタオルであたしの頭をわしゃわしゃと撫で回した。うう、ちょっと心地好いかも。身体を起こして立ち上がる。リジィは柔らかく微笑んだままだった。
「私は船長のところへ行ってきます。もしマルコ隊長が目を覚ましたらお水をあげて下さい」
「うん。任せて」
「後、ここは医務室ですからね」
「…うん?分かってるよ?」
「いつ誰が来るかも分からないので、仲良くするのは控えて下さいね」
「…………ッ、リジィ!」
あたしがドスのきいた声でリジィを呼ぶのとリジィがひらりと踊るように医務室を出ていったのはほぼ同時だった。あ、あのロリロリデカパイナースめ…!知らず知らず顔に集中する熱が嫌になる。リジィはつまり「いつ誰が来るか分からないからイチャイチャするのははやめた方がいいヨ」と言っているのだ。イチャイチャって言うのはほら、その、あれだよ、ハハハ。それにしてもリジィの逃げ足の速さには驚かされた。本当にただのナースなんだろうか。少し痛むこめかみを押さえつつマルコさんの眠るベッドに視線をやった。規則正しく動く胸に、まだ起きないかなあと心の中で呟く。
(…離したくねェ、か)
マルコさんに言われたことを思い出す。幾ら酔っていたとは言え、アレは本音だと思っていいだろう。寧ろ人間酔っている時の方が本音を言うものだし。だからあの『離したくねェんだ』は、きっと本物。マルコさんの正直な気持ちだったんだと思う。床に膝をついてマルコさんの顔を覗き込んだ。マルコさんの寝顔を見るのって初めてかも。こうしてまじまじ見ると、やっぱりこの人おっさんだなあ。本人に言ったら怒られるかな。マルコさんすぐ手が出るし。おっさんのくせにその辺子どもっぽいんだよね。にしても唇厚いな。いっつもこの口があたしを馬鹿にするんだ。
(でもこの口が、あたしを離したくないって言った)
この人はあたしがいなくなった時、少しは怯えたりしたんだろうか。もう逢えないのかと悲しんだりしてくれたんだろうか。そうだとしたらそれは物凄く嬉しい。顔が熱くなるのが分かったけどどうせマルコさんは寝てるし誰もいないし隠す必要は無かった。ふと、マルコさんの胸に乗っかった大きな手に目をやる。大きな、骨張った手。あたしとは全然違う手だ。
恐る恐る手を伸ばして、そっと触ってみた。マルコさんの手は少しだけ温かくて、やっぱり大きかった。ごつごつしてる。爪の形が綺麗だな。指も長いし、これが翼になるのってなんか納得出来るかも。もう片方の自分の腕を枕にしてベッドに顔を乗せる。マルコさんの横顔をじっと見つめた。
(あたしだって離れたくないよ)
なんだ。思ってることは一緒なんだ。なんだか可笑しくなって小さく笑ってしまった。すると、触れていたマルコさんの手が、あたしの手をぎゅっと握り返して来た。おお、これはあれか。乳児期に見られる、手や足に指などを触れるとぎゅっと握り返す把握反射というやつか。…いや待てアホか。マルコさんのどこが乳児期なんだよ有り得ないだろ。じゃあナンだ。
じゃあ、まさか。
「…マルコさん」
名前を呼ぶとマルコさんは顔をあたしとは反対の方へ向けた。なんだよ、起きてたんだ。眠ってる間に手を握ってたことがばれたのが恥ずかしい。悔しくて何も言わずにいたらマルコさんが身体ごとこっちを向いた。目が少し細くなっている。なんだその余裕の表情。悔しい。
「…いつから起きてたんですか」
「お前が手を触った時に目が覚めたよい。寝込みを襲われるたァ思ってなかった」
「そんなことしてませーん。酔っ払いの相手であたしはヘトヘトです」
「……」
わざとらしく溜め息をついて見せるとマルコさんは目を丸くした。それから少しばつの悪そうな顔をして視線をうろうろと泳がせている。その様子を見て「お」と思った。マルコさんはあたしから視線を逸らしたままだ。あたしが真正面からジトッと睨み付けると、マルコさんは観念したように口を開いた。
「…悪かった」
「覚えてます?」
「お前を海に道連れにしたことならよく覚えてる」
「じゃああたしを離したくないってみんなの前で抱き締めたのは?」
「それもよく覚え」
マルコさんの口がぴたりと止まる。それから、これでもかってくらいに目を見開いた。もしかしてその反応、覚えてないんだな。そうだよね。マルコさんって硬派っぽいし、人前であんなことする性格じゃないよね。イゾウさん達がいいもん見れた、とか言ってたっけ。あれは酔った勢いだったんだろうなあ。マルコさんは瞬きもしないで固まった、かと思えばじわりじわりと赤くなっていった。マルコさんの寝顔だとか赤くなったとこだとか、今日は珍しいことだらけだ。
「…覚えてねェ」
「そうですか」
「…うんざりしたかい」
「うんざりしてたらここにいませんよ」
「…腹減った」
「もう夕方ですもん。ご飯食べいきますか?」
「…いや」
もう少しこのままがいい。
小さく呟くマルコさんの横顔を見つめる。いや、つい見惚れた。何言っちゃってるんだこの人。そんな恥ずかしいこと、そんな嬉しいこと。よく言えたもんだ。何も言えなくなって自分の腕枕に突っ伏した。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。悔しい。すき。
繋いだ手はそのまま、ずっと離れない。