深呼吸はした。手に『人』って三回書いた。なのに、だ。なんであたしの心臓はこれっぽっちも落ち着いてくれないんだろう。ずうううゥッとドックンドックン騒いでくれちゃってこれじゃあ中に入れない。マルコさんの部屋の、中に。

マルコさんの部屋の前で立ち尽くすこと約三十分。何の為にここまで来たんだ、早く中に入らなきゃ背中を押してくれたサッチに悪いだろ!それに、早くこれを渡さなきゃ。持ってきたウォレットチェーンに視線を落とす。よし。大丈夫だ。もう一度深呼吸。手に『人』を三回、じゃ足りないからもう三回で計六回。もう一度深呼吸。…行く。行くしかない。ごくりと唾を飲み込む。勇気を振り絞ってドアをノックした。返事は無い。でも、いるって分かってる。だから逃げない。


「…マルコさん、なまえです」

「何の用だ」


驚く程すぐ返ってきた声に息を詰まらせる。な、何をびっくりしてるのさ。マルコさんの部屋なんだからマルコさんがいて当たり前でしょ。マルコさんの声が低くて冷たいのは、予想通り。大丈夫。大丈夫、頑張れあたし。


「あのっ、は、入ってもいいですか?」

「そこじゃ言えねェことなのかい」

「そ…んなことは、ないですけど」

「じゃあそこでいいだろい」

「…ひ、昼間はすみませんでした!」


マルコさんに見えていないのは分かっていたけどあたしは深く頭を下げた。マルコさんの声が怖くて怖くて足の震えが止まらなかった。いつもより突き放されていることもかなり辛い。こんなのあたしが知ってるマルコさんじゃないよ。だけど、悪いのはあたしだ。マルコさんがあたしの顔も見たくないくらい怒ってるならここで誠意を露にして見せなきゃ。それだけのことをあたしはやらかしてしまったんだ、仕方ない。あたしが悪い。握り締めたウォレットチェーンがギリリと悲鳴をあげた。


「…おれに謝るのは間違ってんだろい」

「親父にも謝りました。エースにもナースにも。…マルコさんにもご心配とご迷惑を」

「要らねェ」


実際そうなったことは無いけど、身体に雷が落ちたらきっとこんな衝撃が走るんだと思う。凄まじいそれが頭から足まで貫いてあたしは一瞬息が止まった。心臓まで止まってしまったような気さえした。どうしよう。どうしたらいいんだろう。精一杯、ほんとうに本気で謝っているのに、それを「要らない」と言われてしまった。そうなれば話は続かない、終わりになる。あたしはずっとマルコさんに突き放されたまま。そんなの、絶対嫌なのに。目尻が熱くなって鼻の奥がツンと痛んだ。駄目だ、泣くな。泣けばもっとうざがられる。あたしが悪いんだ。泣くな泣くな泣くな。諦めるな。唇を強く噛んだ。


「ごめんなさい」

「要らねェ」

「ごめんなさい」

「要らねェって言ってんだろい」

「ごめんなさい!」

「…だから、」

「あっ…あたし、マルコさんに許して貰えなかったらもう、駄目なんです…!」


目をきつく閉じた。そうしないと涙がこぼれそうだった。こんなのってやだ。やだよ、耐え切れない。こんな時に妙な話だけどあたしって、こんなにマルコさんのこと好きだったんだな。今までの優しいマルコさんを知ってるから尚更辛い。こんなに怖いマルコさん、やだよ。そうさせたのはあたしだけど嫌だ。絶対やだ。だから許して貰えなかったら、あたしは駄目になる。だから、許して貰えるまで何度だって謝る。土下座だってする。逆立ちだって何だってする。マルコさんが許してくれるなら、なんだって。

不意に部屋の中からギシ、と床が軋む音がした。身体が凍り付く。きっとマルコさんがこっちへ近付いたんだろう。軋む音はすぐに止んでまた沈黙が訪れる。ドアが開く様子はなかった。恐る恐る顔を上げて、静かに深呼吸する。ここは離れない。あたしは諦めない。諦められない。ウォレットチェーンを胸に抱き締めた。


「…なんで、お前はそう…」

「……」

「お前といたら、おれァおかしくなる」

「…?」

「苛々、ヒヤヒヤ…気分が落ち着かねェ」


突然聞こえてきた声に軽く狼狽した。いきなりどうしたんだろう。マルコさんの声にはさっきまでの怖さや冷たさが消えていた。だけど代わりに、不安定さが増えていた。一歩近付く。分からない。この一枚の隔たりの向こうで、マルコさんはどんな顔をしているんだろう。


「本気になる訳にはいかねェと自分に言い聞かせた。…だが、言い聞かせてる時点でもう遅かった」

「…マルコさん…?」

「認められねェんだ。どうしたって認める訳にゃいかねェ、後悔するのは…お前だ」


マルコさんは何を言ってるんだろう。呆然としながらふと、いけない、と思った。なんでかは分からない。だけどあたしはこれ以上この人の言葉を聞いてはいけないと、直感で悟った。脳みその何処かでサイレンが鳴り響く。ああ駄目だ、いけない。耳を塞がなきゃ。でも手が動かない。マルコさんを止めなきゃ。でも声が出ない。逃げなきゃ。でも、何処に。


「なァなまえ、頼む」


駄目、嫌だ、やめて。聞きたくない。聞かせないで。言わないで。お願い、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ゴメンナサイ。

























「船を降りてくれ」
























手を、伸ばした。届かなかった。でも伸ばした。ウォレットチェーンが床とぶつかってゴトッと鈍い音を立てる。

突然切れたテレビみたいに、あたしの意識はそこでぶっつりと途切れた。
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