朝起きたら隣はもぬけの殻だった。普段ならそれが当たり前なのに何か足りない。しばらくぼんやり考え込む。あーそうだ、エースがいない。エースは何処だろう。目を擦った時だった。ドオォンッ、と何かが崩れるような大きな音が響いたのは。同時に部屋が揺れる。な、なに?今の。地震…な訳ないか。ここ海の上だし。じゃあ何?心臓がどくどくと早鐘を打つ。眠気が一気に吹き飛んだ。なんとかしてベッドから降りて部屋を出てみれば甲板の方から真っ黒い煙が出ているのが見えた。頭に『火事』の文字が浮かび上がる。よく解らないけど、何かあったんだ。
「…みんな…!」
親父は。エースは。マルコさんは。サッチさんは。隊長さん達は。ナースさん達は。リジィは。みんな無事なのか。なんで誰もいないのか。どうしようもない不安に駆られて走り出す。動きにくいこの身体では何度も転んでしまったけど、それでも走った。煙が目に染みて痛い。ごほごほ咳き込みながら甲板への最後の一歩を踏み出した。
そしたら、息が止まった。目を見張った。すぐ近くで燃えている船があったのだ。だけど驚いたのはそれだけじゃない。甲板に人が倒れてる。血が出てる人だっている。たぶん味方じゃない。だって立っているのは、よく知った顔。
「ぐあッ!」
「畜生…桁外れだ…!」
「当然さ。この船を誰の船だと思ってんだい」
「喧嘩を売る度胸は悪くないんだがな」
エースやマルコさんが、倒れた人を見下ろしていた。口元には笑みを浮かべている。未だに燃える船を見て、敵襲にあったんだとようやく理解した。理解したけど、理解したくなかった。エースが、マルコさんが、みんなが、怖い。昨日は一緒に笑い合っていたのにまるで別人みたいだ。隊員さん達が倒れた人を抱えて燃え盛る船へ投げる。エースが船の縁に立って右拳を構えた。
「───火拳!」
振りかぶった右拳から炎が飛び出した。興奮した猛虎のように激しいそれは一瞬にして敵の船を飲み込む。ほんとうに、一瞬だった。聞いたことのない悲鳴が鼓膜を揺らす。なに、いまの。なんでエースの手から炎が?武器なんて何も持ってないのに。なんで、なんで!怖くて気持ち悪くて目を閉じた。耳を塞いだ。その場にうずくまった。
昨日の夜に解ったはずだ。この人達は海賊だ、って。だけどあたしは知らなかった。知ってたけど忘れていた。海賊っていうのが『善人』ではないことを忘れてしまっていたんだ。漫画や映画で見たことがある。その中の海賊はみんな人を殺したり物を盗んだりしてた。みんな『悪役』だった。
「なまえ?」
「!」
「どうかしたかい?」
気が付いたら目の前にマルコさんがいた。全然解らなかった。やっぱりあたしとは住んでる世界が違う。マルコさんはどこか心配そうな表情を浮かべている。きっとあたしが青い顔をしてるからだ。しゃがむとあたしに手を伸ばしてくる。あたしを撫でたり抱き上げたりする大きな手。好きな手なのに、ひどく怖くなった。
「ナースのところに行」
ぱしっ、と。小さな、乾いた音がした。マルコさんの言葉が途切れる。あたしがマルコさんの手を叩いたのだ。マルコさんの目が小さくなっていく。それから呆然とあたしを見つめた。いつもと同じマルコさんの顔だったのに、なんだか怖かった。あたしはとんでもないことを仕出かした心地になった。謝らなきゃ。マルコさんはあたしの心配をしてくれただけなのに。謝らなきゃ。謝らなきゃ。ああもうなんで、声が出ない。身体が震える。またマルコさんの手が伸びてくる。逃げようとしたけど遅い。マルコさんはいつもみたいにあたしを抱き上げた。
「…お前、見てたのかい」
「……っ!」
ごめんなさい、と。咄嗟に口を開いた。よく解らなかったけど気分を害したのなら謝った方がいいと思った。
口を開いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。ドオォンッと爆発音が鼓膜を貫く。視界の隅っこで敵の船が爆発するのが見えた。それから次に感じたのは浮遊感。あたしの身体は、宙に浮いていた。
「しまっ…!」
「なまえ!」
マルコさんの後ろからエースが走ってくる。エースの身体が炎みたいに揺らめいた気がして、怖くて目を伏せた。ジェットコースターが落ちるような嫌な感覚に身体を強張らせる。あたしは勢いよく海へ落下した。
冷たい水の感覚に一気にパニック状態に陥ったあたしは思い切り海水を飲んで溺れてしまった。それじゃなくてもこの縮んだ身体だ。上手く泳げない。助けて、と水面からなんとかして顔を上げた。上げて、背筋がゾッとした。みんな、こっちを見ているだけだった。
マルコさんも、いつも兄ちゃんぶるエースさえも見ているだけだった。助けにきてくれなかった。ただあたしを、見下ろしているだけだった。
「なまえ!しっかりしろ!」
サッチさんの声がして強く引き寄せられる。いつの間に飛び込んだのか。そんなことを考える余裕はなかった。なんでエースは助けに来てくれなかったの。なんでマルコさんはただ見てるだけだったの。なんで、どうして。いい人だと思ってたのに。あたしみたいなガキはどうでもいいのかな。海賊にとってあたしみたいなガキは。
サッチさんは垂らされたロープによって引き上げられた。腕の中にあたしがいるのを確認してみんな近寄って来る。それが怖くて怖くて、あたしは走り出した。だけどすぐにエースに捕まって抱き上げられる。きっと心配してくれていただろうに、あたしは暴れた。
「お、おいなまえ!」
「は…っはなして!」
「どうしたんだよ!」
「たすけてくれなかったくせに!」
「…な」
「みてるだけだったでしょ?いつもあたしのこといもうとっていってるのに、たすけてくれなかった!」
エースの手から力が弱まる。その隙にあたしはエースから抜け出した。着地に失敗して転んだけど気にしない。あたしはそのまま宛もなく走り出した。誰も、追っては来なかった。