この世の中にはクズ男がごまんといる。そうだ、太宰治の人間失格の主人公だって、ヒモでクズな男だったじゃないか。名作にすら登場してしまうのだから、現実で1人や2人くらい出会ってもおかしくない。
それがたまたま私の世界では松野おそ松さんだったの。それだけのこと。そして、出会ったところで、惑わされなければいいだけのこと。


「おはようハニー…って、その顔はどうしたんだ?」

「カラ松先生…おはようございます。ちょっと、寝不足で…」


誰にも会わずに図書室に向かうなんて不可能なことで、一睡も出来なかった私は目の下にクマを作ったまま出勤するしかなかった。
思い出しただけで身体に熱が篭る。ほっぺにキスされただけでこの動揺ぶりは大人としてどうなのだろう。

何故だかあの人の前だと、子供の頃の純粋な心に戻ってしまう気がする。


「何か心配事か?いくらでも聞いてやるから気兼ねなく話してくれ、」

「ありがとうございます。」

心配そうに私を見つめる彼は、どこかの誰かさんと違って、本当に優しい人。
同じ顔なのに、カラ松先生や他の先生の前では心拍数が上がることはなくて、自分でも男の趣味の悪さに嫌気がさしちゃうな…って、別にあの人のこと今は好きとかそう言うわけじゃなくてと、ぶつぶつと独り言を呟く私に、カラ松先生は首を傾げていた。











今日は注文してた新刊の納品される日。図書室に着くなり、早速、積まれた段ボールの一つから本を取り出して、貸出用のダグを貼り付け、番号の登録をする。単調な作業にウトウトと眠気が襲ってくるものの、ここは気合で打ち勝つのみ。
ガラリと扉が突然開いたけども、私は振り向きもしない。この時間の来訪者は1人しか考えられないから。



「おっはよぉ〜なまえちゃ〜ん!何してんのぉ〜?手伝おうか?」


徹底的に無視して、手を動かす。
なのに、まただ。本当は心臓の音がひどいくらい高鳴って痛い。
というか、この人はなんでこんなにも平然としていられるのだろうか。それは手慣れているからなのか…そう思うと私ばかり意識していることが妙に悔しくなる。

処理を終えた本の山を一つ持ち上げ、指定の場所へと運びだす私の後ろを、赤いパーカーはついてきた。

本棚の上から2段目の右端。つま先を伸ばせばいける程度なのに、届かなくて。眠たいせいもあり、ふらつき、苦戦している私の真後ろにいる彼の腕が伸びて、代わりに本を定位置へとしまってくれたの。

「ほーら、だから、言ったじゃん!
素直に俺に任せなさいって……どしたのなまえちゃん?」


背中に彼の温もりがあるせいで、「ありがとうございます。」の一言すら発せられなくて、息がしづらくて、挙句には手が震えてきてなんでこんなに緊張しているんだろう。
そんな私の様子の変化におそ松さんが気づかないわけがない。

「………本当にさぁ…まじでかわいいよねぇ、お前。」

「ひゃっ!」と小さく悲鳴が溢れたのは彼のせいだ。
からかっているのか、どういうつもりなのか、そのまま腕を回してきて、完全に抱きしめられてしまった。助けてと声を荒げたところで、今は授業中で、別棟にある図書室からは誰にも届かない。静まり返るこの部屋で2人きり。

……落ち着け私。この人は女たらしのクズ。この人は女たらしのクズだ。この行為になんの意味もなくて、きっとたまたま私がいたからで、本当は誰でもいいんだ。よく考えろ、人間失格のヒロインたちはろくな目にあってないぞ。地獄しかないぞ。

クズ男になんてひっかかるな。


「……ねえ、今でも俺のこと好き?」


必死の抵抗も一瞬にして崩れ去る。
耳元にかかる甘い声に全部を奪われてしまいそうで、いや、もう最初から敵うわけなかったんだ。それは出会った頃からきっと変わってない。私の人生の半分はもうおそ松さんで埋め尽くされてるようなもの。


おそ松さんには、私の心も全部バレてしまう。



「………なーんてな!びっくりした?…ってあれ?あれれ、」


離れていく温もりを追うように、そちらに目を向ける。赤いパーカーが滲んでみえる視界。気付かずうちに私は泣いていたみたいで、あまりの不恰好さに、慌てて、袖を使って涙を拭った。


顔を覆う私の手を退けて、優しい笑顔のおそ松さんが映る。目を閉じれば、いつだって、瞼の裏側には松野先生の存在があるの。おそ松さんと同じ。それから、私を撫でる彼の手つきも。やっぱり、あなたは私の探してた人なんだって再確認する。






「………なまえちゃんってさ、」


「なんですか?」

「もうちょっと、おっぱい大きかったら、俺のタイプなんだけどなぁ〜本当に惜しいよなぁ」

私の胸元に、じろじろと視線を注ぐおそ松さんの姿と唐突な言葉に硬直してしまった。しんみりした時間は、瞬時に色を変える。

前言撤回を申し出よう。いや、やっぱり、この人は松野先生の仮面を被った別人だ。私の知ってる松野先生はもうこの世にはいない。

ばちんといい音を立てた後に、おそ松さんの頬は真っ赤に染まった。
生まれて20数年、初めて人にビンタをすることになるなんて。

それも、会いたくてしょうがなかった人に。


「おそ松さんのことなんて、大っ嫌いですから!」


あの頃から秘めてる気持ちは、一生伝えないって決めました。







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