「ねえ、ちょっと!みょうじさん!」

出勤するなり、血相を変えて走ってきたトド松先生に、おはようございますと軽く会釈をした。「おはよう、それよりもさ!」の後に続く言葉はなくとなく察してる。

「……あいつになにかされなかった!?」

「え、」

「…ほら、昨晩、おそ松兄さんと一緒に帰ったんでしょ?!」

「あ、あはは、大丈夫ですよ…」


トド松先生がそこまで心配してくれる理由は、きっと彼に前科があるからなのだろうか。大丈夫ではないのに、大丈夫だと言ってしまうのは私の昔からの癖。あの件は物凄くショックだし、正直、引きずっている。でも、そんなことで仕事に支障は起こしたくないから、昨日のことは私の胸の中だけに留めておこう。

「なら、良かった!おそ松兄さん、本物のクズだから気をつけてね!今日はいないみたいだけど、どうせパチンコ行ってるんだろうし…」


そもそも、松野先生は、この学園の先生ではないのだから気にすることない。それに、私の中の綺麗な松野先生は昨晩呆気なくも消えてしまった。いや、最初からそんな人存在しなかった。過去は過去で、思い出はあの頃のまま心にしまっておけばいい。

無理矢理にでも気持ちを切り替えて、私は図書室へと向かうことにした。







しんと静まり返る部屋で、私は黙々と作業を進める。司書の仕事は地味なものばかりと思われがちだけど、なかなかハードなものも多い。費用内で新しい書物の発注や、期日内までに書類や掲示物を製作したり。カウンターから動かずに、パソコンとにらめっこ。お手洗いに行くのを忘れてしまうこともしばしば。きっと本が好きだからこそできる仕事なのだろう。

この夢を諦めなかったのも、松野先生のおかげだった。


「なまえちゃーん!やっほー!」


誰かと優雅にお喋りしてる暇なんてあるわけないのですが。突如目の前に現れたその人のことはスルーして、ひたすらに手を動かす。
今は授業中、この場所に来れる人間なんて1人しかいない。

というか、心臓に悪いからやめていただきたい。


「ねえねえ、シカト??なんで、ねえ、俺暇なんだけど〜」


教師じゃない彼はただのニートで、それならば手伝って欲しいくらいだ。
そもそも、昨日の今日で、普通に話しかけてくるって一体どういう神経してるのでしょうか? ぎろりと一瞥くれてあげれば、彼はにっこりと笑ってみせた。


「なになに、そんな冷たい目しちゃってさぁ、かわいい顔が台無しだよぉ?」

「お世辞は結構ですから。」

「俺、本当のことしか言わねえし。昨日だってさぁ、この子可愛いなぁって思ったから………お前、美人になったよね。」


彼の腕がカウンターを超えて、私の頭を撫でる。この人は、ただのクズ。トド松先生の言葉を思い出したのに、目を合わせてしまったらセーブしている気持ちが溢れ出してしまうそうで。

人間、簡単に好きな人のこと嫌いになれるわけがない。


「ま、松野先生は、落ちぶれちゃいましたよね。」

「うわっひどいこと言うねぇ〜まあ事実だけど。」

バカにしたのに、何が可笑しいのか、彼はけらけら笑って、それから、急に真面目な顔する松野先生のせいでなんともいえない雰囲気が漂う。

「あのさ、それやめない?」

「それ?」

「松野先生ってやめよ?」

確かに松野先生だと他の人と区別がつかない。だけど、長年そう彼を呼び続けてきたものだから、今更、他の呼び方はどこか気恥ずかしい。

「俺の名前、おそ松なんだけど、」

そうですか。と、わざとらしくパソコンの画面に向き直す。そんなの随分前から知ってますし、それよりも今は仕事中だ。浮ついた気分になってる場合ではない。
なのに、半ば強引にその人と目を合わせなければいけなくなったのは、彼が私の顎を掴んでそっちを向かせたから。

「呼んでくれなきゃ、今ここでちゅーするから。もちろん、口に。」

「はぁっ!?え、あの、」

これは一体どう言う状況なのだろうか。目前に彼の顔。なにがよくて、好きな人とキスしなきゃならないのか。ぐるぐると身体中の熱が渦巻く。判断力が鈍る中、本当に小さな声で、「おそ松、さん」と呟けば、満足そうに彼の口許は弧を描いた。

よくできましたとなぜか頬に口づけをされる。約束が違うし、意味がわからない。心臓破裂する。
わけもわからずに、おそ松さんのことを突き飛ばして、私はそのままどこに行くのかも決めずに衝動で図書室を飛び出した。



「はは、顔真っ赤にしてさぁ。かーわいい、」





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