「なーに読んでるの?」

「夏目漱石です…」

「渋っ!それよりもこの本すっげー面白いよっ!」


国語を担当していた松野先生は、よく図書室に来ては1人で本を読んでいる私に声をかけてくれた。先生のオススメしてくれた本は確かにすらすらと読めるもので、今でも自宅の本棚のラインナップになっている。


私の知ってる松野先生は授業が面白くて、生徒思いで、いつも笑顔で、責任感が強くて、でも、時折子供のようにはしゃいで、絵に描いたような理想の先生でした。
できるならば、もう一度あの頃の松野先生を見てみたい。知ってるからこそ、今の子供達にも、彼の教師としての姿を見せてあげたい。








理事長主催の飲み会もお開きとなり、方面が同じというだけで松野先生と一緒の電車で帰ることになった。他の先生方は一人暮らしをしており、唯一実家暮らしの松野先生だけが赤塚に住んでいるそうだ。
ガタンガタンと電車は揺れる。うとうとと今にも眠りそうな松野先生は、私の肩に寄りかかってきた。緊張のあまり背筋がピンと伸び、太ももの上に置いた拳は手汗がひどい。

再会できただけでも息詰まるほどなのに、覚えていて、さらに今こうして隣にいる。

10分ってこんなに遅かっただろうか。生きた心地がしない。

車掌さんの渋い声で赤塚に到着のアナウンスがかかって、ゆさゆさと彼の身体を揺らせば寝起きの子供のような顔をする松野先生にただ、ただ、胸がきゅんと疼いた。

子供の頃は雲の上の人だったのに、大人になった今は手が届きそうなほど近くにいる。あの頃と変わらない年の差に、意味などなくなるだろうか。




「家どっち?」

「こっちです。」

「んじゃ、送ってくよ〜。」


自然と車道側を歩いてくれる彼の紳士さに、やっぱり心は落ち着かない。
「まさか、なまえちゃんに再会するとは思わなかったね。」と、相変わらず彼の笑顔はきらきらと眩しくて、駅を出てからも、松野先生は私の横にいてくれて、なんだか夢のように思えてくる。何度も、何度も、会いたいと願った人。


「……松野先生に会えて、私はすごく嬉しいです。私、中学の頃、すごく助けてもらったから、だから、ちゃんと今度お礼させてくださいね。」


精一杯の想いを詰め込んで、慎重に言葉を選びながら伝える。好きという感情だけじゃない。そんな単純な台詞じゃまとまらないの。


「んーじゃあさ、」



だけども、私は彼に幻想を抱きすぎていた。救われたという単純な事実に、私は溺れすぎていた。子供の頃、憧れていたドラマのヒロインも、輝いていたのは役という表面だけで当の本人は真逆だったかもしれない。

人間なんて、そんなものなのだ。人の奥底を見ようとしないで、自分の理想をいつも押し付ける。


「今からホテル行こうよ。そこでお礼ちょーだい。意味わかるよね?俺、若い子大好きだし。」

「は?」


片方の手指で丸型を作り、そこに人差し指を突っ込むポーズをしている。一発いいでしょ?だなんて、それも子供のようなあどけない笑顔のまま。

……100年の恋も一瞬で冷めてしまうほどの衝撃で。


腕を掴まれて、反射的に顔を殴ってしまったのは申し訳無いと思いましたが、
私の恋した、年上の先生の正体が女たらしのただのクズ男だったことは、できれば知りたくなかった。





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