中学の担任の先生に、私はたくさんたくさん救われたの。

「…学校嫌いな気持ちすげーわかるよ!俺もそうだったからさぁ。だから、悪さばっかりしてたもん。」



思春期の始まり、女子の派閥に、男子からの嫌がらせ。一時期のことだと今なら理解できるけども、あの頃の私にはそれが世界の全てだった。

「……不登校になりたい。」親からも世間からも白い目で見られる行為を、私の希望を、彼はすんなりと受け止めてくれたのだ。

逃げることは、悪いことじゃないよって。

きっと、私のせいで先生の評価に罰マークがつけられていただろうに、構わず私のことを庇ってくれる先生が人として、すごく好きだった。


「お前さ、将来なんになりたいの?」

「司書さん…ですかね。本が好きなので、」

「んじゃ、その気持ちだけは忘れちゃだめだかんね。好きなものさえあれば人は生きていけんだからさ。あーあとさ、寂しくなったらちゃーんと俺のとこ来るんだよ?1人で抱え込むのは絶対だめ!俺との約束!」


指切りをした後に、ぽんぽんと私の頭を撫でてくれた彼に、静かに心臓が高鳴る。憧れでも、尊敬でもない。紛れもなく私は松野先生に恋をしていたの。
誰にも言えなかった恋は、卒業する最後まで伝えることは叶わなかったけども。

だけど、今でも感謝してる。あの期間があったから、私は平穏を手にしているの。













「えっと……赤塚学園、ここかな?」

地図を頼りに今日から配属になった学校を探す。生ぬるい風に並木道の木々は揺れる。都会にある新境地は、どこか懐かしい匂いがした。それは、私の通っていた中学校に似ているせいかもしれない。

正門を潜り、事務員の方々に軽く挨拶を済ませ、真っ先に向かうのは理事長室。第2校舎に行くための渡り廊下を探せなかった私は、後ろ姿の白衣の見つけて、すかさず声をかけた。



「あの、今日から配属になったみょうじで、す…」


振り向くその顔を目の当たりにして、言葉が出なかったのは、ずっと会いたかった人だったから。ぼさぼさの髪の毛にメガネ。少し雰囲気は変わってるけども、あの人に間違えない。私が忘れるわけない。
奥底に眠っていた恋情が目覚めたように、私の心を支配する。

突然の邂逅に硬直する私に、その人は「用事はなに?」と、低い声で呟いた。


「……あ、えっと、あの、私!みょうじなまえです!中学の時に松野先生が担任で、すごくすごくお世話になりました!あの、覚えてますか…?」


興奮気味な私とは逆に冷静さを保つ松野先生。その温度差に違和感を覚える。あれ、この反応はもしかして、忘れていらっしゃる?それはそれでとてもショックなのですが。


「………はぁ。俺、担任持ったことないし。てか、そもそも保健医なんで、人違いじゃないですか?」

まさかの別人だったようだ。すみませんと深々と頭を下げる私に彼は「別に、よくあることだから。」と淡々と呟いた。

……よくあることなの?

そして、ますます私の頭を混乱させるのは、次に声をかけてきた別の先生の存在のせいだ。


「一松先生〜〜そんなところでなにしてるの?あれ、新入りさん?おはようございまーす!」

「トド松…」

「もー校内では僕のことトド松先生って呼んでって言ったでしょ!」

「へいへい。」

トド松と呼ばれた彼は、ピンクのVネックカーディガンが目立って、あの人に、それから保健医の一松先生とそっくりな顔をしていた。ここまでで私が知る限り、同じ顔が3人。世の中は、こんなにもそっくりさんが存在するものなのだろうか。


「ほーら、理事長が言ってたじゃん!今日から新しい司書さん来るって!……ねえ、君がそうでしょ?」と、少ない情報で現状を把握したトド松先生はさすがだ。
こくこくと私は必死に頷く。案内してあげると笑顔で迎えてくれたトド松先生の隣に並んで、付いていく。こう、話しかけやすい人の存在はとてもありがたい。
そして、この気さくさを私は知っている。眺める彼の横顔はどうみても松野先生にそっくりで、他人であることが信じられない。




「……あ、そういえばさ、この学校さ、同じ顔の先生が全部で5人いるから驚かないでね?僕ら兄弟なんだ。」

「……それって5つ子ってことですよね…?」

「まぁ、そんな感じ!」


当たり前だけど、だから同じ顔なんだ。なるほど。一つ謎が解明された。

……それならもしかして……どきどきと再び高鳴る心臓を気付かれないように、そっと抑える。

「あの、トド松先生…」

「なーに?」

もしも仮に会えたとして、告白がしたいとか短絡的な考えはなくて、ただ、松野先生が松野先生のままであってくれれば、私はそれだけでいいのだ。結婚してたら、それはそれで落胆はしてしまうだろうけど。
確かに恋はしてる。けど、それは中学生の私であって、今の私じゃないの。




「おーい、サッカー部連中おっはよぉ〜俺のことも混ぜてよぉ〜!」

「おそ松!ちょうどいいとこにきたな!これからチーム戦やるからさ、」


開けっ放しの窓から入り込む部活動中の生徒の声は、何故だかやけに鮮明に聞こえた。

…おそ松。生徒達は確かにそう呼んだ。聞き間違えじゃない。 慌てて身を乗り出して窓からグランドを見下ろす。
ジャージ姿の生徒に紛れて、1人の赤いパーカーの姿が映った。無邪気にサッカーをするその人を、私は知っている。

楽しそうに笑顔で彼がクラスメイトとよくボール遊びをしていた過去の光景が蘇る。あの日と変わらない、あの人の姿。



「松野先生、」


私の探していた松野先生。絶対そう。ここからだと顔ははっきり見えないはずなのに、なんでか確信しかない。

でも、私の望む未来が、松野先生にとっての未来とは限らないものだったんだね。



「あーおそ松兄さん、また遊びに来たんだあ
。あれ、僕たちの長男なんだ。でも、あの人、今は先生じゃないんだよね。」


私が大人になった頃、私の大好きな人は教師を辞めていた。




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